中島孤島の軌跡

明治生まれの文学者中島孤島の作品と人生をたどります

島村抱月との因縁(2)(抱月の帰朝)

 あらためて、島村抱月の帰国直後の状況を見てみよう。

 抱月が滞欧留学から帰国したのは、明治38年9月のことだった。

 早稲田大学のみならず、その周辺の人々の期待を一身に背負っての帰国だったといってよい。帰国歓迎会が大小含めて何度も行われたほどだった。

 9月10日に横浜港へ船が到着した際、早稲田の同輩や後輩たちが抱月を出迎えた。

 中島孤島もそのうちの一人である。

 孤島は、早稲田大学校友会が発行する『早稲田学報』の文芸欄に「島村抱月を迎ふ」という文章を書いている。

 

〝 島村抱月を迎ふ 

 月の十二日抱月子を横濱に迎ふ。

 八月の初われ信濃にあり、ヹニスよりの繪葉書は一月を隔てて、わが手に入りぬ。水の都の美はしきを目にして、遙に君飄遊の姿を偲び、更に再會の日の漸く近づけるを思へり。八月の末われ信濃より歸りて、君が既に歸航の途にあるを聞きぬ。

 今日君を迎えて埠頭に立つ。(中略)

 眼をあぐればローン號は既に衆船の間を縫うて、その山の如き姿を現し來りぬ。檣頭(しょうとう)の月徐ろに動きて、湧くが如き樂の響は甲板より起れり。迎ふるもの、迎へらるるもの、衆人の心は奏楽の響に融けて、歓喜の波と湧けり。

 君は従容(しょうよう)として甲板より降り立てり、手を握つて語なし、わが心はただ踊りぬ。ああ、君は歸れり。君は歸れり、君を迎ふるの情は、凱旋の將をを迎ふるの情也。君を迎へて言ふ所なきは言ふべき所餘りに多ければ也。”

(『早稲田学報』124号 明治38年10月1日発行 より)

 

 抱月が帰国する少し前に、べニスから送られた絵葉書を受け取った孤島は、その地で抱月が旅を楽しむ様子を思い浮かべながら、さらに抱月が帰国して再会する日が近づいていることを思っていた、というのである。

 また「ああ、君は帰れり。君は帰れり」という言葉や、「君を迎ふるの情は・・」のあたりは、たとえ仮に多少の社交辞令の歓迎の言葉だったとしても、この時点で孤島は抱月の帰国を待ちわびていたこと、そしていよいよ再会したことを喜んだことが伝わってくる。

 

 抱月が帰国後に最初に公的に執筆したものは、明治38年11月の『東京日日新聞』に掲載された「如是文藝」だと思われる。「如是文藝」を現代語にするなら、「このようにあるべき文芸」とでもなるだろうか。

 

 この論文を受けて、孤島は同じく『東京日日新聞』紙上に「足下の第一聲」と題して、抱月に対して自分の意見を述べた文章を寄せた。(※足下=目上の人に対する敬称)

 これを一部引用してみる。

 

抱月兄足下

 足下、外遊より歸りて日尚ほ淺く、未だ足下が蘊蓄の一片を洩らすに遑(いとま)あらずして、文壇の視線は一に足下の身邊に集るの状あり。

足下よ、奇を好むは人の常也、文壇の視聴が常に新(あらた)なるものに向つて集注せらるるは異(あやし)むに足らず、然かも彼等が新なるものを喜ぶはただその新なるがためのみ、ただその珍らしきを愛づるがためのみ、珍奇を愛づる者はまた直ちに其の珍奇に倦(あ)く、彼等が向背(こうはい)の定めなきまた異(あやし)むに足らざる也、此くの如くにして彼等のために一たび九天の高きに挙げられ而して忽ち九地の底に擠(おとしい)れられしもの、吾人今に於て其の多きを数ふに苦しむ、彼等は擠(おと)さんがために先づ之れを挙ぐるものの如し。俗衆の恃(たの)み難きこと太甚(はなはだ)しい哉。

 足下よ、余は此くの如きを以て足下に警(いまし)むるの愚をなす者にあらず、ただ爰(ここ)にこれを言ふは足下最近の言説に於て少しく思ふ所あるが故也。”

(『東京日日新聞明治38年12月11日月曜文壇 「足下の第一聲」より)

 

 堅苦しい美文調でわかりにくいので、現代語になおしてみると、

゛あなたは外遊から帰ってきたばかりで、日がまだ浅く、あなたの知識や経験の一片を十分に語り尽くす時間もない状態です。その一方で、文壇の人々の視線は、ひたすらあなたの身辺に集中しています。

 奇抜なことを好むのは人の常です。文壇の人々が常に新しいものに注目し、興味を持つのも当然です。ただし、彼らが新しいものを喜ぶのは、その新しさだけのためであり、珍しいものを愛でるのもそのためです。奇抜なものを愛する者は、すぐにその奇抜さに飽きてしまいますし、彼らの関心は一定しません。こうした状態で、一度高く天の上に持ち上げられたものが、突然地の底に押し込まれることもあります。私たちは今、そのような多くのものに苦しめられています。彼らは、そうしたものを先に持ち上げるために、無理に引き上げているのです。一般大衆の頼みとすることは、非常に困難なことです。

 私はこうしたことをもってあなたに愚かに警告しているのではありません。ただ、最近のあなたの言説について、少し気になる点があるから申し上げているのです。”

 

 とこのような意味になる。

 単なる歓迎の文ではなく、どうやら文芸上の観点の違いをこれから述べようとしている前振りなのである。

 

 ところが、この文章はやはり抱月には気に入らなかったようであった。

 同時代に別の人の手に寄って書かれたこの件についての資料がある。

 

 ゛之れより先き、先生欧州の留学を了えて帰朝せし時、孤島は抱月先生歓迎の辞を毎日新聞に掲げたりき、その文章の公にしたる時、孤島は或る席上にて『島村さん毎日新聞に出した歓迎の文を見てくれましたか』と訊ねしに、先生は『見ました』と眼に角(かど)立てて孤島を睨み付けぬ、孤島は歓迎の文を書て何も怒ることはあるまじと不審を起し、後にてその文を調べ見れば、文中、『世人は軽薄なもの、昨日は賞めても、今日は嘲る、世人の評判を気にかけず、一直線に行け』と、かういふ意味の文ありしより、先生の逆鱗に触れしことと訳り、先生の神経質なるに驚きしといふ、先生の孤島を見る、初めより斯の如し、(後略)”

 (山口孤剣「明治百傑伝」第一編 洛陽堂 明治44年1月)

 

 この山口孤剣という人の手になる文章は、「大文豪島村抱月先生」と題して書かれたもので、「・・先生」というのは皮肉を込めた書き方であり、文章全体が抱月を揶揄、批判しているものなので、中には多少の誇張や偏見も含まれているかもしれない。

しかし、このエピソードからもわかるように、孤島と抱月の間柄に抱月の帰国直後から暗雲が立ち込めていたことは間違いのない事実だったのだろう。