中島孤島の軌跡

明治生まれの文学者中島孤島の作品と人生をたどります

「象徴詩をめぐる論争」

 先の「近代文学論争事典」で解説されている論争のなかで、中島孤島が関わるもう一つの論争は「象徴詩をめぐる論争」だ。

 これは蒲原有明が1905(明治38)年に発表した詩集『春鳥集』が発端となり、有明の詩だけではなく「象徴詩」や「象徴主義」をめぐって意見の応酬がされたものをさしている。

 蒲原有明は1875(明治8)年生まれの詩人。象徴派詩人として、『独紘哀歌』『春鳥集』『有明集』などを発表した。

 

 「象徴詩」とは、心情や主張をそのまま言葉であらわすのではなく、また自然をそのまま描写するのでもなく、象徴的に描く詩のことである。

 そもそもは、フランスのボードレール、ベルレーヌ、ランボーといった詩人たちによって試みられた詩であり、日本はで上田敏によって初めて翻訳、紹介された。

 上田敏は、1874(明治7)年生まれの評論家、詩人、翻訳家

 

 「近代文学論争事典」によれば、蒲原有明の『春鳥集』をまず批判したのは、桜井天壇であり、文芸雑誌『早稲田文学』(明治38年7月および9月)にその文章が掲載された。

 ※桜井天壇は、1879(明治12)年生まれのドイツ文学者、文芸評論家

  

 続いて同年、角田浩々歌客、中島孤島が読売新聞紙上文芸欄において、象徴詩に関する批判的な文章を掲載した。

 中島孤島は、当時読売新聞で文芸評論を連載執筆しており、ここで象徴主義文学を否定的にとらえる意見を書き、この年の文壇を「暗黒なる文壇」と称していた。

 ※角田浩々歌客(かくだこうこうかきゃく)は1869(明治2)年生まれの詩人、北欧文学者、文芸評論家、新聞記者

 

 これに対し、詩人の上田敏象徴主義象徴詩に対する誤解や無理解に反論する形で応えている。

  この論争における[収穫]は、上記「事典」で次のように記されている。

 

 ゛はじめ『維氏美学』などにつたえられた「象徴」の意味が、近代詩の中で確認されて、奥深い意義が探求され、やがて芸術一般の理解の深化を自覚的に行うようになったのにもこうした象徴詩をめぐる論争が役立った。”

 
 ※『維氏(ゆうし)美学』は、フランスのウジェーヌ・ヴェロンの著作 ”L'Esthétique”が中江兆民によって翻訳されてつけられた邦題
 
 前回取り上げた「美的生活論争」と同様に、やはり「論争が起きること」でその分野の理解が深まり、後世に少なからず影響していくという効果はあるようだ。

 

『近代文学論争事典』

 1962年(昭和37年)に至文堂というところから出版された長谷川泉/編『近代文学論争事典』という書物がある。文壇においてどういうテーマが論争の的となっていたか、そこに誰が加わっていたかなどが解説された事典だが、「事典」が一冊作れるほどに近代文学においては「論争」が多かったということになり、そのこと自体が興味深い。

 現代においては少なくとも文壇という世界ではそこまで論争自体が行われていないのではないかという気がする。

 明治時代から大正時代にかけて文壇で活動していた中島孤島もその例に漏れず、いくつかの「論争」に加わった形となっているので、それを取り上げてみたい。

 

 その一つとして、「美的生活論争」がある。

 発端は、高山樗牛の「美的生活を論ず」という、文芸雑誌「太陽」明治34年)に掲載された記事である。樗牛の「美的生活論」は文壇に大きな波紋を引き起こし、賛否両論が渦巻いた。

  高山樗牛は、1871(明治4)年生まれの文芸評論家、思想家。

 また、賛否両論とはいっても、対立する人たちのバランスはかなり偏っていて、樗牛の論に反駁する作家たちのほうが圧倒的に多かった。

 

 高山樗牛の論に賛同する登張竹風、与謝野鉄幹に対して、反駁したのは、以下の人たちである。長谷川天渓、樋口劉協、久保天随、後藤宙外、角田浩々歌客、中内蝶二、大町桂月森鷗外坪内逍遙、秋江生、龍山学士であり、中島孤島もここに名を連ねている。

 

 上記「論争事典」によれば、樗牛の主張は

 ゛人間の目的は幸福にあり、幸福とは本能即ち人性本能の要求――その最大の要求は性欲である。――を満足させることであり、この要求を満足させるものが美的生活である。美的生活が人性本然の要求を満足させ、従って絶対的価値をもつのに反して、道徳や知識は「本能の発動を調摂し、其の満足の持続を助成する」方便に過ぎず、従って「独立の価値」をもたない。(ただ道徳、知識もそれ自体が目的となる場合は美的生活の内容となる。)“ 

とのことである。

 これに対して、道徳主義、悟性主義の立場から、文壇において主に上記の批評家、作家たちから駁論が示されたのである。

 

 この「美的生活論争」についての「収穫」として、先の「論争事典」は「駁論のはげしさはその歴史的役割の大きさを示唆しており、文壇のみならず一般思想界への影響も大きかった」ということを記している。

 

 「論争」はたとえそれがどこかに終着せずに終わったとしても、それ自体が歴史的に価値を持ち、のちへの影響力をもつということが言えるのだろう。

 

新聞掲載の童話『玉ちゃん』

 1900(明治33)年に東京専門学校(現早稲田大学)文科を卒業した中島孤島は、主に文芸雑誌や新聞に文芸批評記事を書いたり、海外文壇の紹介記事を書いていたが、その時期にも時折児童向けのものを書くことがあった。

 たとえば、1902(明治35)年8月に読売新聞に二回にわたって掲載された『玉ちやん』(玉ちゃん)などがそうである。筆名も孤島ではなく「こたう」(ことう)とひらがなで表記しているので、明らかに子ども向けの作品だ。

 

 この頃、中島孤島は読売新聞に文芸評論の連載欄を持っていて、この「玉ちやん」が掲載された時期には同時に「柳絮録」と題して評論を連載していた。それに関しては別途扱うとして、今回は子ども向けのこの「玉ちやん」を見てみる。

 少し引用してみると、(旧仮名遣いはあらためてある)

 

   玉ちゃん

               ことう

    《一》

『母様彼處(あそこ)に猫の子が居ますよ』と云いながら、駈けこんで来たのは、取って八歳になる太郎さんでございます。

『オヤ、オヤ、左様かい、何んなんだか、マア、連れて来て御覧なさい。』

というと、太郎さんは喜こんでまた出て行きましたが、直きに白斑の可愛らしいのを、両手に抱えて入って来ました。

『マア、可愛らしいこと、何うして捨てられたんだろうねい、可哀想に』

『母様、可(い)いでしょう、畜(か)って置いても』太郎さんと母様が見て居ますと、猫はもう自分の家へ来たつもりかなんかで、お座敷の中を、彼方此方へ駆け廻わって、太郎さんがヂャらすと、太郎さんの肩の上まで上って行きます。

『母様、何て名にしてやりましょうね。』

と、太郎さんは既う可いお友達を見つけたといふ顔色で、種々と可さそうな名を考えて居りましたが、ついつい玉ちゃんて名に定めて了(しま)いました。

 夫(そ)れからは毎日毎日玉ちゃんで、家中が大騒ぎでしたが、玉ちゃんは誠に、元気の好い猫で、よく太郎さんのお相手を致します。

 

とこのような具合である。

 たわいもない話のようだが、このあと、庭にいる山雀(やまがら)やニワトリ、黒いマムシ、赤いマムシなどが登場し、ストーリーとしては動物や人間を困らせるマムシを猫の玉ちゃんが退治する、という筋書きである。

 動物たちの会話で物語が進んだあとに、もう一度茶の間に場面が転じて終わる。

 

最後の部分を抜粋すると、

『母様、玉ちゃんは、斯様(こんな)顔をして居ても本当に強いんですねい』

と、太郎さんが玉ちゃんを見ながら、如何にも感心したように言いますと、

『太郎や、お前は本当に玉ちゃんのお蔭で、生命(いのち)拾いしたんだよ』

と、お母様は太郎さんの頭を撫ぜたが、一寸(ちょいと)お父様の方を向いて、

『貴方、玉が居なかったら、家(うち)の太郎は何(ど)うなったでしょうね」

『左様(’そう)さ、危険(あぶな)い所だったよ』

と、お父様とお母様が話してお出でなさる間に、太郎さんが縁側へ出て、喇叭を吹き出しますと、玉ちゃんもノソノソついて行って、日向でしきりに顔を洗って居りました。

 

 猫と鳥やマムシたちのやりとりの会話が続くところは、あたかもイソップやグリム童話のような話の展開のしかただが、この「玉ちゃん」の話は、西洋的な雰囲気は感じられないので、断言はできないが、翻訳ものではなくオリジナルの童話なのではないか。そうであるとすれば、中島孤島の数少ない創作童話の一つかもしれない。 


ことう『玉ちゃん』(1900(明治35)年8月読売新聞に掲載)

 

 

シンデレラから『かまど姫』へ

 明治期に冨山房より出版された中島孤島/編『こども芝居』のなかに、附録として「かまど姫」というお話が掲載されているが、この「かまど姫」は、のちに児童雑誌『金の星』にも掲載されている。

   『金の星』のほうで確認してみると、この「かまど姫」という話は、私たちがよく知っているあの「シンデレラ」を翻案化したものだということがわかった。

 「シンデレラ」(Cinderella)とは「Cinder=灰」から来ているあだ名なので、そこから転じて「灰」と関係ある「かまど」+姫としたのだろう。読者にとってイメージがわきやすい名前だといえる。

 

 『金の星』に2回にわたって掲載された「童話劇 かまど姫」がどのように書かれているのかちょっと引用してみる。

 

 ゛ある所に三人の娘がありました。上の娘はふぢ、中の娘はあやめ、末の娘はすみれといいました。ふぢとあやめは今のお母さんの本当の子ですが、すみれだけはお母さんが違っていました。それはすみれのお母さんが、病気になって死んだあとへ、今のお母さんは、ふぢとあやめを連れて後妻に来たのだからです。(中略)”

 

 ゛そして姉さんたちはいつもきれいな衣服(きもの)を着て、立派なお座敷で遊んでばかりいるのに、この娘(こ)ばかりは一日働いた上に、夜になっても温かい寝床へは寝かされないので、かまどの前へ灰まみれになってまるまってねていました。ですから口の悪い姉さんたちは、この娘に「かまど姫」という綽名(あだな)をつけました。”

 

 ここまでが物語の背景の説明で、以降は脚本形式となっている。

 

[二番娘のあやめは、茶の間のまんなかへねころんで、何か読んでいると、そのそばには姉のふぢが坐って、編物かなんかしています。台所の口には、ぼろぼろの衣服を着たすみれが、小さくなって雑巾をさしています。長火鉢の前で、じろじろと三人の様子を見くらべていたお母さんは、あやめに向かって言いました。

母『あやめや、お前、なにをそう熱心に読んでおいでた。お前がそうしている姿は、何ともいえないほど恰好がいいよ。

あやめ『あら、いやだわ!(とお母さんの方を見て、にっこり笑って)このご本には、ある王子と美しい王女のお話が書いてあるのよ。(中略)

 

 登場人物の名前がすべて日本名となり、舞台装置も「茶の間」「お座敷」「かまど」「長火鉢」などときわめて日本的なものに変えてあるので、物語が進んで王子が登場するときにはどのような役柄になるのだろうかと思ったが、次の舞台は「王宮の広間」「夜会」「長椅子」などになり、「王子」が登場し、いわゆる「ガラスの靴」は「水晶の沓(くつ)」となって現れる。

 すなわち後半の場面は、とても西洋的であり、とくに日本的なものは現れない。そこは日本的なものに置き換えるには無理があることだったのかもしれないが、かえって「家」と「王宮」との落差が際立っていて面白い。

 挿絵をみると、こちらは明らかに西洋文化そのもののドレスや靴や調度品などが描かれていて、シルエットだけだがいわゆる「シンデレラ」の物語を思わせるものになっている。

 「シンデレラ」につきものの「かぼちゃの馬車」は登場せず、魔法使いのおばあさんも現れないが、代わりに老翁(おじいさん)が現れて呪文を唱えたりする。もちろん、最後はハッピーエンドである。

 

 ゛老翁『(にこにこ笑いながら)かまど姫や、誰のお蔭でもない。みんなお前の心掛がいいからだ。それでは王宮へ行って、幸福に暮らしなさい!

王子『(家来に向って)で、用意の馬車を!(といいつけて置いて、かまど姫に向い、姫君、さァお立ちなさい!

かまど姫『はい!

(かまど姫はしづかに立上って、王子と顔を見合せて、嬉しそうににっこりと笑いました。)    (幕)

 

 実際にこれを脚本として利用することはあったかどうかはわからないが、当時の子供向けの児童向けの読み物としてこのような翻案もの、そして童話劇の形式があったことがわかる一例だ。

 

「かまど姫」(『金の星』1922(大正11)年5月号より)

 


 

翻案と再話

 外国の作品を翻訳して紹介する際に、明治以来とくに児童文学の分野では「再話」という手法が用いられてきた。

 児童文学における「再話」をあらためていくつかの辞書をもとに定義すると、「神話、伝説、昔話、世界の名作文学作品などを、原典に忠実に翻訳するのではなく、子供向けに、物語としてわかりやすく書き直したもの。」ということになる。

 

 一方で、「翻案」という手法もあるが、これは必ずしも児童文学の分野に限られることではなく、「小説、戯曲などの分野で、誰かが創作したものをもとにして、大体の筋・内容を借りて、改作すること。」ということになる。

 私のイメージでは、「翻案」のほうがより原作から離れて創作が加わっている場合が多いような気がする。とはいえ、「再話」という手法と重なる部分もあるので、この二つの手法がはっきりと別のものであるともいえないだろう。

 

 明治、大正時代の児童文学作品や外国文学作品の紹介においては、一般的に再話ものや翻案ものはかなり多かったようだ。

 中島孤島の作品のなかにも、「再話」や「翻案」といえるものが多い。

 話を分かりやすくしただけでなく、舞台そのものを外国から日本に移し替えて、人物の名前や地名なども日本のものに置き換えている場合もあり、それは外国文化にまだなじみのない読者に寄り添う形のものとなっていたといえる。

 

 その数多い「再話」「翻案」もののなかから一つを例にあげると、たとえば『かまど姫』という」童話劇がある。これは、実は私たちの誰もがよく知っているあの「シンデレラ」が原作の翻案ものである。

 

 次回はこの『かまど姫』について触れてみたい。

 

 

 

 

 

 
 
 

キップリングのロングセラー『ジャングル・ブック』

「少年世界文学」シリーズで、中島孤島は『狼太郎』『百姓と悪魔』『蝶の魔法』の巻を執筆担当しているが、この『狼太郎』について見ていこう。

(まだ実はこのシリーズの現物を見る機会に恵まれていないのが残念だが)この『狼太郎』の原作はイギリスの作家キップリングの『ジャングル・ブック』という作品である。

 ※キップリング(ジョセフ・ラドヤード・キップリング Joseph Rudyard Kipling)は、1865年ボンベイ生まれのイギリス人小説家、詩人。イギリス統治下のインドを舞台にした作品で知られている。ノーベル文学賞受賞者でもある。

 

 『ジャングル・ブック』が日本で最初に紹介されたのは、1899(明治32)年から1901(明治34)年にかけて雑誌『少年世界』に土肥春曙、黒田湖山の共訳で連載されたものであるが、単行本としては、1902(明治35)年に中島孤島訳で『狼太郎」として出版されたものが最初である。

 

 ストーリーとしては、ジャングルで狼に育てられた少年モーグリMowgli )が、さまざまな動物たちと交流したり対決しながら成長し、やがては人間の社会に戻っていくというものである。

 『ジャングル・ブック』は短編集だが、そのうちの大半がこの少年モーグリを主人公とした話になっているため、『ジャングル・ブック』といえばすなわち゛モーグリの物語“というのが一般的な認識となっている。

 

 明治を皮切りに、その後大正、昭和時代を経て、令和の現在に至るまでもこの『ジャングル・ブック』の翻訳は途切れることなく続いて多数出版されている。

 また映画化も過去に何度もされており、最新の作品は2016年である。

 まさしく超ロングセラーの物語だといえる。

 

最初の児童向け翻訳本『少年世界文学』シリーズ

 中島孤島が評論活動などから離れて、児童文学に注力するようになったのは、大正時代に入ってからであり、いわゆる゛文壇”を離れたから児童文学に移っていったようにも見えるが、さかのぼると児童文学へのかかわりは実は若いころからあった。

 

 明治35年冨山房から「少年世界文学」(全16冊)というシリーズが出されたが、これは中島孤島の恩師である坪内逍遥が監修し、そのもとで早稲田大学の若い文学士たちが翻訳を担当したものだった。

 

 ちなみにそのメンバーは、中島孤島以外は、正宗白鳥、河合酔茗、西村酔夢、石原萬岳、高須梅渓、大鳥居古城、平尾不孤、佐野天聲らである。

 中島孤島はキプリングモーグリ物語を『狼太郎』、トルストイの民話を『百姓と悪魔』と題して執筆した。また(原作が何であるかまだ確認出来ていないが)『蝶の魔法』という物語も執筆している。

(参考:瀬田貞二『落穂ひろい』下巻—日本の子どもの文化をめぐる人びと―1982年福音館書店

 

 当時のこの『少年世界文学』シリーズがどういう位置づけであったかは、以下の記述が参考になる。

゛「少年世界文学」の覘(うかがい)所は、恰(あたか)も「日本お伽噺」及び「世界お伽噺」若しくは開発社の「修身童話」の上層を行かんとするものの如く、而も世界文学の名題に相応しく、日本及び外国のお伽噺中より、最も著名にして、文学の薫高きものを撰べる点に、その特色が見られた。

 この叢書は、極めて美麗なる表紙と口絵とに飾られ、且つ挿画も少なからず、表紙の上面にはパラフィン紙を当てて、一層の美観を添え、相当に至れり尽せりの良心的出版物と認められ、一冊の定価十二銭は、必ずしも高くはなかった。

 而してこれが執筆者は、主として逍遙門下の早稲田文科の秀才を網羅し、特にその取材に、古典演劇の多くを採用したるは、流石に監修者の意の在る所と頷かれよう。”

(木村小舟『少年文学史 明治篇 下巻』童話春秋社1942(昭和17)年より)

 

ところが、これだけ企画と製作に力を注いだシリーズにもかかわらず、

゛時勢が早かった為か、売行が宜しくなくて、冨山房は大分損をしたそうである。”

 と執筆者の一人である正宗白鳥が後年述懐している。

 のちに大正時代になって、同じ冨山房から出た「模範家庭文庫」がおおいに受け入れられたことを見ると、やはりこの明治期の美しい「少年世界文学」シリーズはまだ時期が早かったのかもしれない。

 

 当時としては゛極めて美麗なる表紙と口絵とに飾られ、且つ挿画も少なからず、・・”というこのシリーズをまだ一冊も目にすることができていない。これも現物を見る機会が訪れることを期待したい。