中島孤島の軌跡

明治生まれの文学者中島孤島の作品と人生をたどります

翻訳文批難事件ー蒲鞭ー(3)(白鳥の反論)

 明治37年、゛山の人” なる人物が、文芸雑誌『明星』において、中島孤島や正宗白鳥等の翻訳文の誤訳を指摘をしてきたことに対しては、孤島だけだけでなく、同じく正宗白鳥も黙ってはいなかった。

 当時、25歳の正宗白鳥は、讀賣新聞の記者を勤めながらも、副業として時折翻訳を手掛けていた。

 所属の『讀賣新聞』7月19日号の紙上で次のように書いている。

 

 ゛「文庫記者に告ぐ」

桟如幻(さんじょげん)とか山の人とかいふ匿名を以つて頻りに吾々の翻訳の誤謬を指摘する人がある。吾人語學の修養も浅く文學的良心も極めて乏しい者は、これによりて反省する所も多く、今日の幼稚なる文壇にはこんな人も一人位必要であつて、予一人はこの匿名文士に感謝したい程であるが、其の文章の如何にも冷酷にて嘲笑的なれば、折角の好意(?)まで腹立しくなる。文庫記者が「この所謂親切を冷嘲したる」を遺憾とすれど、冷嘲に酬(むく)ゆるに冷嘲を以つてしたのだから當然だ。

『蒲鞭』の中(うち)四五六七九十は誤譯である。自分ながら何でこんな間違ひをしたのかと思はれる程だ。十一の「つまらん字だ」の字は何かの誤植だと思ふ。他は拙譯かは知らぬが、誤謬ではない。巧拙をいへば、馬場孤蝶の譯文など、拙劣を極めてゐる。尤も吾人は原文と引きくらべて見たことがないから、誤譯の有無は知らぬが、文章は我々よりも下手だ。(中略)

 

 匿名で誤訳指摘をすることに対して、「今日の幼稚なる文壇にはこんな人も一人位必要であって、予一人はこの匿名文士に感謝したい程であるが」と、いったんは認めて持ち上げつつも、その「嘲笑的な」文章には「腹立たしくなる」という本心も述べている。

 そして、「自分ながら何でこんな間違ひをしたのかと思はれる程だ。」と指摘された誤訳の内容については認めてはいるものの、指摘の一部は「拙訳かは知らぬが誤謬ではない」と反論し、「巧拙をいへば、馬場孤蝶の譯文など、拙劣を極めてゐる。尤も吾人は原文と引きくらべて見たことがないから、誤譯の有無は知らぬが、文章は我々よりも下手だ。」と、匿名の主が馬場孤蝶と推定されることを前提にして、ここで早くも名指しで孤蝶の訳文の文章について非難までしている。

 

 また、次のようにも述べている。

予は『蒲鞭』などを讀んで、最先に感じたのは、自分はこんなにエライ人かといふことだ。まだ四五篇の短篇を翻譯したのみで、これ程社會の注意を惹き、譯文界屈指の大家となれようとは夢にも思はなかつた。馬場孤蝶などは十年餘も翻譯をしたり小品文を作つて量よりいつても吾人の十倍以上であらうが、文學者としての地位がまだ吾人と同等であるとは憫然の至りだ。

 ○桟如幻曰く譯文大家は創作家たる文才がないから翻譯をすると。これは己れを以つて人を推す者。予今年(こんねん)漸く二十六歳、前途量るべからずどんな大作をなすか分らんではないか。少なくとも桟如幻や山の人よりはエラクなるだらうよ。(後略)”

 

 すなわち、「自分はまだ翻訳についてほんの初心者である、馬場孤蝶など長く翻訳をやっている人間と同等に語られるとは思ってもみなかった。しかし、自分はまだ若い、勝手に才能を判断されては困る、今後どんな大作を書くかまだわからない、少なくとも誤訳指摘をしてきた人よりはエラクなるだろう」と、ほとんど捨て台詞のような文言まで書いている。

 しかしながら、これが捨て台詞では終わらず、実際に白鳥は翻訳ではなく、創作のほうで後年には大成し、後の世に名を残すまでになっていったのだから、あながち若者の単なる強がりでは終わらなかったところが面白い。

 

 また、「東京新詩社」の名前で、孤島と白鳥に対して「誤訳指摘をしたから、返答せよ」といった主旨の通知が来たことに対しては、やはり腹を立てたらしく、次のように書いている。

 終りに臨んで一言す。予は新詩社の来書に対し、はがきにて返信し、「原稿料を充分に払へば、返書を書いて同社へ贈らう。」といって遣つた。(後略)”

 

 孤島が「矢文」と称して、新詩社から「果たし状」のようなものが届いたことに呆れていたのと同様に、白鳥も相手方のこのようなやり方に憤慨し、反駁の意を込めた葉書を送ったということなのだろう。

 

 このように、「蒲鞭」に対して、一度はかなり反発をし、それを表明もした白鳥だが、後年(当時48歳)になってこの事件を回想している文章においては、そのトーンはかなり変化しているところが興味深い。

 

 〝(前略)早稲田卒業後、二三年間、私は翻訳によって小使銭を稼いでゐたのであつたが、その頃バルザツクのある短篇を『むごい助命』と改題して翻訳して、文藝倶楽部へ寄稿したところ、馬場孤蝶氏によつて、「明星」誌上、『蒲鞭』といふ題目の下で、手酷しく誤訳指摘をされた。それは一々的中してゐたので、自己の無学を反省する外なかつた。それで、私は小使銭取りの翻訳を断然思ひ止まることにした。(後略)”

              (正宗白鳥「翻訳文學」 『改造』昭和2年6月号所載)

 

 すなわち『蒲鞭』で自身の翻訳文の誤訳を手酷く指摘されたことがきっかけとなり、それまで副業としてときどき手掛けていた翻訳からは手を引くことにしたというのである。『蒲鞭』事件は、白鳥にとって、決して小さくない事件だったといえるだろう。

 

 

翻訳文批難事件ー蒲鞭ー(2)(孤島の反駁)

 『明星』に「蒲鞭」というタイトルの誤訳指摘の文章が掲載されてから数日後、中島孤島は、『讀賣新聞』(明治37年7月10日号)で自身が担当している「甲辰文學」欄において、この誤訳指摘について少しだけ触れている。

 

 ゛(片々)

 聞けば此の頃大層難有(ありがた)い大先生があつて、今日(こんにち)の譯文を片端から朱(しゅ)を入れて、叮嚀(ていねい)に校訂して下さるさうで、取るにも足らぬ僕等のものまで度々御手数をかけるといふ話、近頃以て忝(かたじ)けないことだ。

 仁者(じんしゃ)は人のためにすとか、自分の庭の草は措(お)いても、他人(ひと)の田地(でんち)の莠(はぐさ)を抜いてやらうといふ先生の如きは、確かに稀なる仁者と御見受け申す。敢て思召に甘へる譯ではないが、莠は抜いても稲株だけは残して置いて頂きたい、(後略)”

 (以下は現代語訳)

 ゛聞くところによれば、このごろはたいそうありがたい大先生がおられ、近ごろの翻訳文を片端から赤字で添削し、丁寧に校訂してくださるそうである。取るに足りない私たちのような者の文章にまで何度も手をかけてくださるとは、まことにありがたいことである。「仁者は人のために尽くす」というが、自分の庭の草はそのままにしておいても、他人の田畑の雑草を抜いてやろうという先生のような人物は、まさに珍しい仁者であるとお見受けする。もちろん、そのご厚意に甘えようというわけではない。しかし、雑草を抜くのはよいとしても、稲まで一緒に刈り取らないようにだけはお願いしたい。”

 

 孤島は、ここでは指摘された内容についてではなく、「誤訳指摘」そのものについての皮肉めいた反応に留めている。しかし、この後に起きた「山の人」側の動きについてはさすがにやり過ごすわけにはいかなかったらしく、孤島はさらに1週間後の『讀賣新聞』同欄「甲辰文學」において、「矢文」と題して、誤訳指摘について、踏み込んだ反駁を試みている。

 ※矢文・・手紙を弓矢を用いて遠くから放って送ること。弓を射る側は相手側に存在を悟られないように送ることができる。果たし状などに使われることがある。

 

 ゛(矢文)

 此の頃世間の譯文に朱(しゅ)を入れて叮嚀に校訂して下さる大先生があるといふ噂を聞いて、此の前の本附録に一言(いちごん)御禮を申上げて置いた。所が其の後白鳥と僕とに宛てて、思ひ掛けぬ書面が來た。

 拝啓筆稿ますます御多祥来欣賞候、さて本月一日発行の弊社『明星』に於て「蒲鞭」と題し先生等の御譯文に付鄙見(ひけん)を臨じ御示教を乞ひ候が右は毫も私情を挟み候よりの擧には無之文界の真面目なる進歩の道程に障礙と相成るやうの現象多々有之候折■ただに譯文界のみならず、韻文小説等創作界の事にも批評界の事にも同様の鄙見を臨じて高教を求め又自己等の短處は更に■先生の御■■を求め廣と存候微志に■ならず候されば「蒲鞭」に対し私情をはなれたる文界の作法として御高見■■し被下度「讀賣」新聞の紙上にて御示し被下■乎又は御都合にて弊誌へ御投寄被成下度奉願上候かくして互に責任を明にし禮儀を持して研■致■事は甚だ有益なる事と存候、以上謹で御返事を奉促候 恐々頓首

 追加して「弊誌に御投稿(ごとうこう)被下(くだされ)候はば来(きた)る十九日までに奉願上(ねがいあげたてまつり)候」と書いて居(い)る。

 奇妙なる催促だ、「お前達の挙足(あげあし)を取つてやつたから、何とか返事をしろ」といふのだ。全体「果状(はたしじょう)」なら侮辱された方から送るのが當然(あたりまえ)だ。「俺がやつたが口惜(くや)しけりやあ何(ど)うでもしろ」とマア言つた調子だ。文界の作法とやらいふものは、恁(こ)ういふものかと初めて知つた。それからもう一つ相手は覆面だ、「蒲鞭」といふのは「山の人」といふ假面(めん)を被つて御座る、今度の書状は「新詩社」といふ集合名詞だ。これも文界の作法と見える。成程(なるほど)責任と禮儀を知つた人は違つたものだ。(中略)”

 (以下現代語訳)

 ゛(矢文)

 最近、世間で出回っている翻訳に朱を入れ、丁寧に添削してくださる大先生がいるという噂を聞いたので、前の本の付録で一言お礼を申し上げておいた。ところがその後、白鳥と私のもとへ思いがけない手紙が届いた。差出人は「東京新詩社」となっており、その内容は次のようなものであった。

 拝啓。先生にはますますご健勝のこととお喜び申し上げる。

さて、今月一日発行の弊社『明星』において、「蒲鞭」と題し、先生方の翻訳について私どもの意見を述べ、ご批評をお願いした。しかし、これは少しも私情を交えた行動ではない。文壇の真摯な発展を妨げるような現象が数多く見受けられる現在、私どもは翻訳だけでなく、詩や小説などの創作、さらには批評そのものについても同じような考えから論じ、先生方のご教示を仰ぎたいと考えている。また、自分たちの欠点についても、先生方のご批評をいただいて改めたいというささやかな志から行っているのである。したがって、「蒲鞭」に対しては、私情を離れ、文壇における礼儀にかなった形で先生方のお考えをお示しいただきたい。『読売新聞』紙上でご意見を発表していただいてもよいし、ご都合がよろしければ弊誌へご寄稿くださっても結構である。このように互いに責任を明らかにし、礼儀を守って議論・研究を重ねることは、きわめて有益なことであると考える。以上、謹んでご返事をお願い申し上げる。敬具

 奇妙な催促である。「お前たちの揚げ足を取ってやったのだから、何か返事をしろ」というのである。そもそも、果たし状のようなものは、侮辱された側から送るのが当然である。「こちらはやることはやった。悔しいなら、あとは好きにするがいい」とでも言いたげな態度である。文壇の作法というものは、このようなものなのかと初めて知った。さらにもう一つ奇妙なのは、相手が正体を隠していることである。「蒲鞭」という筆名の人物は「山の人」という仮面をかぶっており、今度の書状ではさらに「新詩社」という団体名を名乗っている。これもまた文壇の作法なのであろう。なるほど、責任や礼儀というものをよく心得た人たちは、ずいぶん違うものである。”

 

 そして、最後にこのように結んでいる。

 ゛重箱の隅を突(つつ)いて「文界の進歩」とやらがなるものなら、貝殻で抄(すく)つても海の水が渫涸(かえほ)せるであらう。恁(こ)ういふ真面目なことは譯讀の先生に委(まか)して置く、刀の汚れを言つたら失禮かも知らぬが、僕等の刀はまだ他に用ゐる所がある。

 御返事は是れ丈にして置く。”

 (以下現代語訳)

 ゛重箱の隅をつつくような細かな誤りを探すことで、それが文壇の進歩につながるというのであれば、貝殻で海水をすくい続けても、いずれ海を干上がらせることができるというのと同じくらい現実味のない話である。そのような細かな校訂や訳読の仕事は、その道の専門家に任せておけばよい。こう言うと失礼かもしれないが、私たちの刀は、そのような用途以外にまだ使うべき場面があるのである。

 返事は、ひとまずこれだけにしておく。”

 

 ゛僕等の刀はまだ他に用ゐる所がある” という文言に、「誤訳指摘」という名で揚げ足を取られたことへの反駁の気持ちが端的に表れていると言えよう。

 指摘した人が本名を名乗っていないことへの反感も含まれていたかもしれない。

 

 続けて次のような、「翻訳者による訳文の違い」の例を挙げている。

 ゛それに就いて思ひ出すが、此の頃昇曙夢君の著「ゴーゴリ」を讀む中(うち)に、上田敏君が「みをつくし」の中(うち)に譯して置かれた同じ短篇があるのに氣が注(つ)いて試みに比べて見た。(中略)”

 (以下現代語訳)

 ゛このことに関連して思い出すことがある。最近、昇曙夢の著書『ゴーゴリ』を読んでいたところ、上田敏が『みをつくし』の中で同じ短編を翻訳していることに気づき、試しに両者を比べてみた。”

 

 ゛前に擧げた二君の譯文に就いていへば、昇君の方が確かに厳正な譯であらう、併し美文として孰(いず)れを取るかと言つたら、僕は上田君の方を取る。結局(つまり)美文の譯が譯讀と違ふ所は、それが美文として獨率の價値を持たねばならぬ點である。これは恐らく、譯讀の先生には會得(のみこ)めぬことかも知れぬ。(中略)”

 (以下現代語訳)

 ゛先ほど挙げた二人の訳文について言えば、昇の訳のほうが確かに厳密で正確な翻訳であろう。しかし、どちらが美しい文章として優れているかと問われれば、私は上田の訳を選ぶ。つまり、美文の翻訳が単なる訳読と異なるのは、それ自体が一つの美しい文章として独立した価値を持たなければならないという点にある。このことは、おそらく訳読だけを重んじる先生には理解できないであろう。”

 

 そして、「山の人」への直接的な反駁文としては書いていないけれども、孤島にとっての「翻訳文のあり方」とは、続けて書いている下記の内容がすべてだといえるだろう。

 

 ゛既に一の美文として見れば、譯文も一種の創作である、イヤ創作でなければならぬ。創作家が自然、人生に得た所を、其の空想に形(かたち)■(つく)るが如く、譯文家は藝術に得た所を、自己の筆によつて寫すのだ。第一段の自然人生と、第二段の藝術と、對象は違ふが、それを再現する方法に變はりはない、孰方(いずれ)も等しく個人の頭を経て来なければならぬのだ、従つて其の方法は譯文家の自由である、創作の方法が作家の自由に存する如く、飜譯の方法も譯文家の自由にある、何(どう)も恁(こ)ういふ文句は必ず恁う譯さねばならぬといふ法則は何處にもない、結局其の全篇の感情と色彩が寫せさへすれば、譯文の第一段の目的は遂げられた譯だ。併しこれは到底譯讀の先生に分ることではあるまい。”

 (以下現代語訳)

 ゛すでに一つの美文として考えるならば、翻訳もまた一種の創作である。いや、創作でなければならない。創作家が自然や人生から得たものを自らの想像力によって作品という形にするように、翻訳家は芸術作品から受け取ったものを、自分自身の筆によって新たに表現するのである。創作家は自然や人生を対象とし、翻訳家は芸術作品を対象とするという違いはある。しかし、それを新たに表現する方法に本質的な違いはない。どちらも一度は個人の頭の中を通り、その人自身の表現として生み出されるのである。したがって、その方法は翻訳家の自由である。創作の方法が作家の自由に委ねられているように、翻訳の方法もまた翻訳家の自由に属する。「この言葉は必ずこのように訳さなければならない」という絶対的な法則など存在しない。結局のところ、作品全体の感情や色彩を十分に伝えることができれば、翻訳の第一の目的は達成されたのである。もっとも、この考え方は、おそらく訳読しか知らない先生方には到底理解できないことであろう。”

 

翻訳文批難事件ー蒲鞭ー(1)

 明治37年7月のこと、文芸雑誌『明星』に「山の人」なる人物による「蒲鞭」(ほべん)というタイトルの文章が掲載された。

 ※蒲鞭・・蒲(がま)の穂のむち。中国後漢の甲陽の太子劉寛が、罪人を蒲の穂のむちで打たせ、辱めだけを与え苦痛は与えなかったところから、軽い刑罰、転じて、寛大な政治をいう。

 

 冒頭は次のような文章である。

 ゛曾て之を毒筆家桟如幻の言に聞く、当時の訳文大家とは、概ね語学の力を以てしては教師たるを得ず、文才を以てしては創作家たるを得ざる、浅学不才の徒なりと。我は、此を以て、如幻が極端なる毒語に過ぎじと想へりしが、この頃、正宗白鳥、中島孤島、桐生悠々、角田浩々四家の訳文を読むに当りて、曩(さき)に如幻が謂ひしところの決して漫罵にあらざるを覚り得たり。鳴呼、以上の四家は、好んで外国文学を談ずるの人々なり、外国文界の諸名流と親類付合をなすかの如く揚言する人々なり。而かも、その語学力の不足は驚くに堪へたるものあり。我は、此四家が、その自らいふが如く、果して外国文学を解し得るや否を疑はざるを得ざるなり。

無知は罪悪にあらずと雖も、之を飾り、之を包み、一知半解の身を以てして、尚傲然人に臨まむとするに至りては、確に文界の罪人なりといはずんばあらず。白鳥、孤島、悠々、浩々の四家の為す所の如きは全く是にあらずや。撻(むちう)たむかな。我鞭折るべきか、四家の銕(てつ)面皮破るべきか、いでや、茲にそれを試みむ。

白鳥先生の譯する所チェホツフの『Two Tragedies』といふものの、六月一日発刊『太陽』の『不運くらべ』是なり。僅々九頁の譯文中、未熟の章句大凡三拾ヶ所を數へつべし、憐れむべきにあらずや。今左に四五の例證を舉げむか。(後略)”

(『明星』明治37年7月号より)

 (以下は現代語訳)

 かつて私は、辛辣な評論で知られた浅如幻が、「当時の翻訳家として名を知られている者たちは、語学力だけでは教師にもなれず、文章力だけでは創作作家にもなれないような、学識も才能も乏しい人々である」と語るのを聞いたことがあった。

 そのとき私は、それは如幻らしい極端な毒舌にすぎないと思っていた。しかし最近、正宗白鳥、中島孤島、桐生悠々、角田浩々の四人の翻訳を読んでみると、以前に如幻が言っていたことは、決して根拠のない悪口ではなかったと悟るようになった。ああ、この四人は外国文学を論じることを好み、まるで海外文壇の著名な作家たちと親しく交際しているかのように吹聴している人々である。それにもかかわらず、彼らの語学力の不足は驚くほど甚だしい。私は、この四人が自ら言うように、本当に外国文学を理解しているのかどうか、疑わずにはいられない。

 無知であること自体は罪ではない。しかし、その無知を飾り立て、隠し、生半可な知識しか持たないにもかかわらず、なお尊大な態度で人の前に立とうとするのであれば、それはまさに文学界の罪人と言わなければならない。白鳥、孤島、悠々、浩々の四人がしていることは、まさにそのようなものではないだろうか。彼らを厳しく非難すべきであろうか。それとも私の批判の筆が折れることになるのか、あるいは彼らの厚顔無恥を打ち砕くことができるのか。さあ、ここで試してみよう。

 まず、白鳥先生が訳したチェーホフの『Two Tragedies』である。これは六月一日発行の『太陽』に掲載された『不運くらべ』という翻訳である。わずか九ページほどの翻訳の中に、未熟で不適切な文章や訳し方が、およそ三十か所も数えられる。実に気の毒なほどである。では、そのうち四、五の例を挙げてみよう。”

 

 すなわち、これは当時世に出たばかりの翻訳小説のうち、正宗白鳥、中島孤島、桐生悠々、角田浩々歌客の四氏によるものについて、その翻訳内容の出来を批判する文章であった。

 ただ翻訳の内容を批判するだけでなく、「文界の罪人なりといはずんばあらず(文学界の罪人と言わなければならない)」などといった文言からもわかるように、その筆致はかなり激烈である。徹底的に4人の誤訳ないし不適切な訳を指摘してやろう、という意気込みすら感じられる。

 そして、具体的にどの作品のどの部分の訳が間違っているのかを英語の原文と翻訳文を挙げた上で細かく指摘している。

 最初に正宗白鳥のチェーホフ作品の翻訳文があげられたあと、次に中島孤島が訳したツルゲーネフの「形見の日記」があげられた。ちなみにチェーホフもツルゲーネフもロシアの作家であるから、原文はロシア語であり、白鳥や孤島は英文にすでに訳されたものから訳している。つまり重訳である。

 「誤訳」部分を列挙したあと、「山の人」は白鳥と孤島に対して、こう述べている。

 

 ゛敢て、白鳥、孤島の両先生に勸告す。今後泰西の文字を邦譯せらるゝ場合には、先づ信ずべき先輩の許に行き、全篇の譯解を請ひ、しかる後邦譯の筆を下したまはむことを。一部難解の章句の質問のみにては、未だ以て意を安んずるを得じ。両先生の如き甚しき勘違をせらるゝ人々なればなり。両先生の如き未だ獨立して譯文を試みるの資格無きを以てなり。然れども、先輩中にも、諸君の爲に、譯解の勞を執る人も無からむには、山人の如きも、両先生にして山人に師事するの雅量あらば、敢て示教を惜まざるべし。論より証據、両先生よりは、山人の方が餘程エラらし、來つて教を請ふに意なきか。敢て両先生の爲に献策すること此の如し。”

 (以下は現代語訳)

 ゛あえて白鳥・孤島の両先生に忠告しておく。今後、西洋の文章を翻訳する場合には、まず信頼できる先輩のもとへ行き、作品全体の解釈について教えを受けてから翻訳に取りかかるべきである。一部分の難しい箇所だけを質問した程度では、まだ安心することはできない。というのも、両先生のように甚だしい思い違いをする人たちだからである。両先生には、まだ独力で翻訳を試みる資格はないと考えるからである。もっとも、もし先輩の中に諸君のために翻訳の指導を引き受けてくれる人がいないのであれば、山人のような者でも、両先生に山人を師と仰ぐだけの度量があるならば、あえて教えを惜しむつもりはない。議論するより証拠である。両先生よりは、山人のほうがよほど優れている。こちらへ来て教えを請うつもりはないのか。以上が、あえて両先生のために授ける私の提案である。”

 

 正宗白鳥、中島孤島はこの当時まだ20代の若さであったから、確かに翻訳の経歴が豊富とはいえず、まだ未熟な点があったのかもしれない。しかし、この「山の人」の口調は、あまりにも上から人を見下したような調子となっている。「提案」といいつつも、どちらかといえば嘲笑や罵倒に近い。

 

 続いて「蒲鞭」は、他の2人の翻訳についても、微に入り細に入り指摘を加えたあと、最後にこのように結んでいる。

 

 ゛当代訳文家の實力とは概ね此の如きものなり。小説戯曲の如きは、日常慣用の言語を以て作れるもの、之をすら此の如く誤読する前掲の四先生は、洋語の論文をば如何にか讀み給ふらむ。此の筆法を以て論文の翻譯を企て給はざるこそ、世人の爲にも、四先生の爲にも、せめてもの仕合なれ。仰ぎ願はくは、文字ばかり列らび居るのみにて、其の意義の少しも解し難き論文を讀ませらるゝの苦艱を、永劫に解脱し得むことを、山人等は天にまします一人の大神に誠意を以て祈り置くものなり。”

(以下は現代語訳)

 ゛現代の翻訳家たちの実力は、おおよそこの程度のものである。小説や戯曲のように、日常ふつうに使われる言葉で書かれた文章でさえ、このように読み違えてしまう前述の四先生が、外国語で書かれた学術論文をいったいどのように読んでいるのか、実に疑わしい。このようなやり方で論文の翻訳を試みないでいてくれることだけが、世間の人々にとっても、また四先生自身にとっても、せめてもの救いである。私が心から願うのは、文字が並んでいるだけで、その意味が少しも理解できないような論文を読まされる苦しみから、人々が永遠に解放されることである。そのことを、山人(筆者)らは天におられる唯一の大神に、真心を込めて祈っておくものである。”

 

 「天におられる唯一の大神に、真心を込めて祈っておくものである」と表面上は丁寧に言っているようであるが、もちろんこれ痛烈な皮肉を込めた言い方である。

 さて、実際に白鳥や孤島らの翻訳の質はどうであったのか。それをここで判断することはできないが、批判された4人のうち白鳥、孤島、角田浩々歌客の3人は、何らかの形で反駁を試みている。そのためもあってか、この「蒲鞭(ほべん)」という記事は、この一回の掲載だけでは終わらず、しばらくの間、尾を引くことになった。

 「蒲鞭」から始まった一連の論争をあげてみよう(当事者以外の評論記事も含む)。

 

 「蒲鞭」(山の人)『明星』明治37年7月号

   「甲辰文學(片々)」(中島孤島)『讀賣新聞』明治37年7月10日

   「甲辰文學(矢文/片々)」(中島孤島)『讀賣新聞』明治37年7月17日

 「文庫記者に告ぐ」(正宗白鳥)『讀賣新聞』明治37年7月19日

 「『蒲鞭』を讀む」(角田浩々歌客)『明星』明治37年8月号

 「東聲」(山の人)『明星』明治37年8月号

 「警露集(議論と私情)」(剣南(浩々歌客))『讀賣新聞』明治37年8月21日

 「餘燼」(山の人)『明星』明治37年9月号

 「山の人を鞭つ」(文芸時評記者)『活動之日本』明治37年9月1日

   「芻蕘(すうじょう)言」(丘の人)『文庫』明治37年9月15日

 「匿名の是非」(小生)『明星』明治37年10月号

 「警露集(議論と私情(再び))」(剣南(浩々歌客))『讀賣新聞』明治37年8月21日

 「曳火弾」(丘の人)『明星』明治37年11月号

 「殘灰」(山の人)『明星』明治37年11月号

 

 ちなみに、この「山の人」という匿名の人物は、当時から馬場孤蝶であると目されていた。

 馬場孤蝶は、明治2年生まれ、すなわち中島孤島たちよりも一回りほど年上の文学者である。この騒動当時は日本銀行に勤務していたが2年ほど後に辞職し、以降慶應義塾大学教授として英文学を講じた。

 

早世した親友坪内孤景(4)(遺稿集について)

 坪内孤景の遺稿集『宗教と文学』は、孤景の死から約1年後に出版された。

 中島孤島は、当時担当していた読売新聞(明治38年7月30日)の文芸批評「乙巳(おっし)文學」の欄に「孤景子の遺稿について」という文章を載せている。

 編集と校訂を担当した中島孤島と児玉花外は、一周忌になんとか出版までこぎつけようとがんばっていたが、間に合うことがかなわず、少し遅れての出版となった。

 

 ゛去年孤景子を青山の土に葬りしより、一年は夢の如く過ぎて、月の二十四日は早くも其の一週年の忌日に当る。是(こ)れより先き遺稿出版の議は既に知友の間に決して、其の編輯校訂の任を負ひし花外とわれと、忌日迄には必ず成し遂げんと万事を抛(なげう)つて心を此(これ)に打込みし甲斐もなく、校正纔(わずか)に終りて、書未だ成らず。一綴(てつ)の校正刷を霊前に供へて、われはひとり心に謝せり、友や笑はん、されどわが心はあやしくも切なかりき。(中略)”

 (以下は現代語訳)

 ゛去年、孤景子を青山の墓地に葬ってからの一年は夢のように過ぎ去り、二十四日には早くもその一周忌を迎えることになった。これに先立って遺稿集の出版計画はすでに友人たちの間で決まっており、その編集と校訂を担当した花外と私は、一周忌までには必ず完成させようと、ほかのことをすべて後回しにしてこの仕事に打ち込んだ。しかし、その努力も実らず、ようやく校正を終えたものの、本そのものはまだ完成していなかった。私は校正刷りを一冊分まとめて故人の霊前に供え、心の中でひとり詫びたのである。友はそれを見て笑うかもしれない。しかし、そのときの私の胸中は、不思議なほど切なくやるせないものであった。”

 

 これに続く文章は、主に坪内孤景という友人がどういう人物であったのか、を示すものとなっている。

 

 ゛友が半生の心血を灑(そそ)ぎし『罪悪観念発展論』の未定稿は此の中(うち)にあり。彼れは所謂宗教家にあらず、世に存立せる何(いず)れの宗教の信者にもあらず、されど彼れは我等の間に於て最も真摯なる宗教心を抱ける者なりき、かくて彼れが真心の聲は彼れの思想に於て常に一味宗教の色彩を帯(お)ばしめたり。彼れの才は頗る多方面にして、之れを論文に試み、美文に試み、新体詩に試み、俳句に試み、小説に試み、行く所として可(か)ならざるものなかりしも、彼れは遂に其の何れに於ても満足すること能はず、其の自ら小説を書き、美文を綴れる間に於て尚ほ文学を以て一種の罪悪なるが如く考ふるの念を禁ずること能はざりき。彼れの心の根本には常に一種の宗教的観念あり、此の点に於て彼れは確かに天成の宗教家なりき。(中略)”

 (以下は現代語訳)

 ゛友人が半生の情熱と努力を注ぎ込んだ『罪悪観念発展論』の未完成原稿も、この遺稿の中に収められている。彼はいわゆる宗教家ではなく、この世に存在するどの宗教の信者でもなかった。しかし、私たちの仲間の中で最も真剣で深い宗教心を持っていた人物であった。そのため、彼の真心から発する声は、その思想の中に常に宗教的な色彩を帯びていたのである。彼の才能はきわめて多方面にわたり、論文を書いても、美文を書いても、新体詩を作っても、俳句を詠んでも、小説を書いても、それぞれ優れた成果を示した。しかし彼自身は、そのどれによっても満足することができなかった。自ら小説を書き、美文を綴っている最中でさえ、文学そのものを一種の罪悪のように感じる思いを抑えられなかったのである。彼の心の根底には、常に宗教的な観念が存在していた。この点において、彼はまさしく生まれながらの宗教家であった。”

 

 遺稿集には、「罪悪観念発展論」のほかに、「仏蘭西近世文学史」「當世教師生活」「月の船」「花の一ひら」「古井の蝶」といった作品が収められている。

 孤島はそれら作品を通して、親友孤景の人柄を偲んでいる。

 

 ゛(前略)われは「花の一ひら」「古井の蝶」の二篇に於て友が眞情の聲を聞く、彼れの胸は常に優しき温かき情を湛へたりき、然り意の人にあらずして彼れは寧ろ情の人なりき、されど其の情を放つて歌はんには其情は餘りに深かりき、「どうせよとおれに縋(すが)るぞ秋の蝶」涙なきにあらず、彼れは其の涙を飲んでよく運命の笞(しもと)に忍ばんとす。「その職にありては職のために忠實なるこそ人生の最大義務なれと信じ、やるべきだけのことはやる覺悟、あんまり見苦しい事はせぬ積りに候、」忠實は誠に友が半生の標語なりき、ああ忠實なる友よ、彼れは其の有為の身を以て遂にその職のために斃(たお)れたりしなり。”

 (以下は現代語訳)

 ゛私は「花の一ひら」「古井の蝶」の二篇の中に、友人の真心の声を聞く。彼の胸にはいつも優しく温かな情が満ちていた。彼は理知の人というより、むしろ情愛の深い人であった。しかし、その情をそのまま詩や芸術として表現するには、彼の感情はあまりにも深すぎたのである。「どうしたらよいのだと私にすがりつく秋の蝶よ」この句には涙が込められている。だが彼は、その涙を人前には見せず飲み込み、運命の鞭に耐えようとした。彼は、「その職にある以上は、その職務に忠実であることこそ人生最大の義務だと信じている。なすべきことはやり遂げる覚悟であり、あまり見苦しいことはしないつもりである」と書いている。「忠実」という言葉こそ、まさに友人の半生を貫く標語であった。ああ、誠実なる友よ。彼はその優れた才能と将来性に満ちた身をもって、ついには自らの職務のために倒れたのである。”

 

 才能に溢れ、情に溢れ、誠実で、職務をまっとうすることが人生最大の義務だとしてそれを貫いた友人が、その職務のために命を奪われてしまったという悲劇。その非情な現実をただ嘆くしかない孤島の心情が伝わって来る。

 

早世した親友坪内孤景(3)(早稲田大学、逍遙の対応)

『早稲田大学百年史』(早稲田大学出版部発行 1976年)という資料によれば、「日清・日露・第一次・第二次の世界大戦を通じて、文士としては後にも先にも只一人の戦死者」とのことである。

 当時の時勢からすれば、孤景の戦死は「名誉の死」であったであろうが、母校早稲田大学の反応はそうではなかった。

 孤景は戦死直後に「功五級の金鶏勲章を授与せられ、中尉に昇叙されたぐらいで、世間常識から言えば、母校の名誉を輝かしたものだのに、大学は葬式一つ出すでなく、記念会を行うでなく、ひっそりとして音なしの構えだった」らしい。それは「大学の日露戦争に対する姿勢がこうであったのだ」ということである。

 

 そして叔父であり早稲田大学の幹部である坪内逍遙の反応もひっそりとしたものだった。

 上記資料には「坪内逍遙にとっては実子のように可愛がった親身の甥のことであり、自分が手塩にかけて育てあげた秀才のことであり、殊に実践倫理の研究に没頭している真っ最中であった。(中略)この時正に戦死に倫理的意見を開陳して当然と思うが、全く口をつぐみ、学友達が遺稿を集めて『孤景文集』を編むに当って、僅かに短文の序を寄せ、世間には多くの戦死者があるのに、これは分に過ぎたことだとのみ言うに留まっている」とある。

 ※『孤景文集』とはすなわち遺稿集『宗教と文学』のこと。

 

 実際の逍遙による遺稿集序文を少し引用してみよう。

 ゛段々の御盡力御禮申上候今回國家の大事に際して獻身せし同胞幾萬人のうち未だ名を成さゞるの文士藝術家たりし者決して僅少には候まじく又其中には眞に歎惜すべき天才の士も或は幾人となく埋れたりしならんかと想像いたし候へば亡甥の如きは其砌新聞紙上に名を録せられ履歴を傳へられたりしだに既に頗る分に過ぎたり然るに彼れのみは何の好宿因ありてか此のたび又同窓諸君の厚誼によりて其の蕪雜零碎の遺稿をさへ斯く物がましく公にせらるゝの幸を得たること洵に是れ死して餘榮あるものと申すべし(中略) 

 七月一日                      逍遙

   孤島君
   花外君

  二白 前田、西山、濱田、山本、小林、其他の諸君へもよろしく”

 

 (以下は現代語訳)

 ゛今回の国家の大事に際して身を捧げた何万人もの人々の中には、まだ世に名を知られていない文士や芸術家も決して少なくなかったはずである。また、その中には本当に惜しむべき才能の持ち主も、何人となく埋もれたまま世を去ったことであろう。そう考えると、故人のような者は新聞紙上に名が載り、その経歴まで伝えられたというだけでも、すでに過分の扱いを受けたと言うべきである。それにもかかわらず、さらに今回、同窓の諸君の厚い友情によって、その雑多で断片的な遺稿までも、このように立派な形で世に公表される幸運に恵まれたのである。これはまことに、死後になお名誉を受けることができたと言うべきことである。”

 

 通常であれば、自身が関わる書物に関しては、長い序文を書いたり、校閲に力を尽すことが多かった逍遙だが、ことこの文集に関しては、短めの序文を書いただけで、編輯は門下生の中島孤島と児玉花外に任せている。そのため、序文の最後は孤島および花外、そしてほかの同級生たちに向けた形で書かれている。

 逍遙が多くを語らず、遺稿集についても孤景の同級生たちに任せたのも、逍遙にとって身内であると同時に教え子でもあった孤景の戦死があまりに衝撃的で悲痛なできごとであったがゆえにということだろう。

 

 

早世した親友坪内孤景(2)(田山花袋の目撃談)

 日露戦争のさなか、文壇のなかで坪内孤景の最期に偶然にも居合わせた人がいる。作家の田山花袋である。

 花袋は孤景と同じ時に同じ戦場に派遣されていた。ただし、年上の花袋は戦士としてではなく、従軍記者としてだった。戦地から無事に帰還した花袋は、そのことを孤景の追悼会で語っている。同時代の作家前田晁が、後に回想して文章に残しているので、それを引用してみよう。

 ゛それは坪内先生の令甥である鋭雄さんが、今の士行君の兄さんが、大石橋で戦死した時の実況を、同じ軍に従ってゐて見て来た田山さんが、矢来倶楽部で開かれた鋭雄さんの追悼会の席上で語られたのであつた。正面には故人の写真が飾られてゐた。オリイブ色の卓子掛をかけた小さなテエブルが其の前にあつて、お定まりのコツプと水差とが其の上に載つてゐた。

 やがて其処に、自地の単衣に黒絽の紋附羽織を着た田山さんが立つたのである。戦地から病気で帰つて来た直後のことで、まだ蒼ざめた顔色をして痩せてゐた。そして其処で、先にも言つたやうに、ぽつりぽつりと、時々絶句しながら戦争の光景を語つて行つた。併しそれは描くがやうにであつた。弾丸が飛んで来て、炸裂したかと思ふと、鋭雄さんの姿はもう見えなかつたといふ所に来ると、田山さんの声は震へた。其の大きな目は潤んでゐた。聴いてゐた者は皆な涙を呑んだ。暫く室内はしいんとした。”

(前田晁『明治大正の文學人』砂子屋書房  昭和17年  初出:『新潮』大正6年7月より)

 

 追悼会における田山花袋の談話は、あたかもその場で実際に目撃したように語られているが、実際はどうやらもう少し間接的な目撃だったようだ。花袋自身が書いた従軍日記ではつぎのように述べられている。

 ゛(前略)それから此日自分が非常に深い感に撲(う)たれたことがある。

 それは丁家溝(ていかこう)に第五旅団本部を訪問した時のことであるが、旅団副官加納中尉(重之)にいろいろ詳しい戦況を聞いて、さて当日の死傷者将校下士の姓名を問うに及んで、自分は愕然(ぎょっ)とした。少尉坪内鋭雄……と副官は平気で語ったが、不図(ふと)坪内孤景君がこの第三師団に居る筈と思つた自分の胸には、すぐ戦死されたかといふ感が烈しく浮(うか)んだ。坪内博士の甥に当る人ではありませんかと聞くと、何でもそんなことに聞いて居りますとの話。

 孤景君には自分は二三度逢つたばかり、別に深い交情もあるのではないが、氏の友人からその性行の一部をも聞いて居り、其の著述の二三も繙(ひもと)いて、わが明治の文壇、氏の為すあるの士であるのを知つて居るので、自分は一方(かた)ならずぬ胸を撼(うご)かしたのである。聞くと、君は当夜接戦の第三大隊第九中隊に属し、中隊長森大尉指揮の下(もと)に、奮戦突撃、勇しい戦死を遂げられたのであるといふ。(中略)・・自分はその路をたどりながら、何(ど)んなに孤景君のことを思つたであらうか。自分等(ら)があの羊草溝(ようそうこう)の民家で、五合の米を粥にのばして、辛うじて餓(うえ)を醫(いや)して居た頃、君はかの明かなる月の下(もと)に、人生悲劇の極点を嘗(な)め尽して、さびしく静かにその異境の山谷(さんや)の中(うち)に横(よこた)つたのであると思ふと、涙がはげしく胸を衝いて溢れて来た。

 せめてはその戦死の情況なりと聞かうと思つて、自分はそのまま路を第三大隊の宿営せるところへと取つた。(中略)それではあの時よく聞(きき)糺(ただ)せば、坪内君にも逢へたものを・・・と遺憾の情が名残なく胸を衝(つ)いて来た。”

 

 すなわち、花袋たち従軍記者が、民家において粥をすすっているその最中に銃撃戦で倒れた、というのである。したがって、さきの追悼会における目撃談は、花袋が戦場で中隊長森大尉に取材して詳しく聞いた坪内孤景の最期の様子を、間接的な目撃であることを省略して、自らが目撃したように皆に語ったということなのだろう。

 いずれにしても、文壇においてある程度の人となりを知っていた坪内孤景という青年文士の壮絶な死を、同じ戦場で見聞きした田山花袋が受けた衝撃は大きかったと想像される。

 

 

 

早世した親友坪内孤景(1)

 中島孤島の東京専門学校時代において、親友と呼べる友人の一人が同級生の坪内孤景だった。坪内孤景の本名は、鋭雄(としお)といい、坪内逍遙の甥だった(次兄の長男)。

 孤景は叔父である逍遙の家に寄宿して東京専門学校に通い、明治32年(1899)に首席で卒業した。学校の成績でいうならば、中島孤島の順位は坪内孤景の次であったらしい。

 卒業後は、志願兵として1年間従軍し、その後は仙台の中学(現在の中学+高校前半に近い)教師となって勤務した。しかし、文学をあきらめることはできず、明治36年には教師の職を辞して東京に舞い戻り、再び中島孤島やほかの同級生たちとの親交を深めた。

 このとき、『文学研究法』という文学理論書を執筆している。

 しかし、明治37年(1904)に日露戦争が始まると、孤景は陸軍少尉として召集され中国(清国)へ赴任することになる。そして、その年の7月24日に大石橋の戦で戦死してしまう。25歳の若さだった。

 8月30日、坪内孤景の葬儀は青山墓地で執り行われたが、中島孤島はそこで同級生総代として弔辞を読んだ。

 この弔辞は、同年10月発行の『新小説』に「孤景を悼む」というタイトルで掲載されている。

  

 ゛孤景子を悼む             孤島

 得難きの縁を此の世に享けて、君と学窓を共にせしは、尚ほ昨日の如くなるに、

君ははや我等を遺(す)てゝ何處(いずく)にか行(ゆ)ける。

 美(うる)はしきものは脆しといふ、情厚きこと君の如く、心清きこと君の如くにして、命(めい)薄きこと如何(いか)なれば君の如きや。

 君は誠に我等の光なりき、君ありて我等に誇(ほこり)ありき、君ありて我等に光ありき、あゝ君亡うしてまた何の誇あらん、また何の光あらん。

 南山の戦終るや、君が消息は語りて曰く、第一線にありて身に一弾を蒙らず、幸にして凱旋の時あらば、我れもまた願はくは我が『セヴァストポール』を書かんと。我等は深く天佑の君が身にあるを信じて、是れよりまた再会の日あるを疑はざりき。

 疑はざりし再会の日は遂に来(きた)らずして、思はざりし凶報は突如として到りぬ。我等は君の訃(ふ)に接して、二(ふた)たび疑ひ三たび惑へり、我が友如何(いか)で死せんと。今にして尚ほ誠に君亡きを信ずること能はず。

 あゝされど君は逝(ゆ)けり、陣中書を裁して「悪運強し」と誇りたる君が墨痕(ぼくこん)の尚ほ未(ま)だ乾かざるに、君は杳(よう)として早く聲なし。あゝ何の日か我等はまた君が『セヴァストポール』を読まん。

 思ふ三月七日の夜、君が出征の門出を送りて新橋に到る。燈影星(とうえいぼし)の如くにして、人は影の如く去来す。手を執つて君が前途の光栄を祝する時、歓聲湧くが如きも、同人相顧みて語なし、悄(しょう)として君が後影(うしろかげ)を見送(まも)る。君は雲烟(うんえん)の裡(うち)に没して、また帰らず。君が征衣の姿尚ほ眼前にありて、また永へに相逢ふの期なき乎(か)。

 人生のこと固(もと)より定め難し、君が生は電(いなずま)の痕(あと)なきが如しと雖(いえども)、君が死は誠に花の如く美(うる)はしかりき。光栄の死君に於て寧ろ憾(うら)む所なけん。

 あゝされど我等が思(おもい)は永へに盡(つ)きずして、君は永へに帰らず、今にして君が生前の志を思へば、恨(うらみ)何ぞ盡きん。願はくは誓つて君が志(こころざし)を空(むなしゅ)うすることなけん、願わくは君が霊(みたま)の光によつて君が志の萬一を成すことを得ん。幽冥境(ゆうめいきょう)を隔(へだ)つるとも心は相通じて永へに渝(かわ)ることあらじ、願はくは享(う)けよ。”

(『新小説』明治37年10月号より)

 

(以下は現代語訳)

゛この世で得がたい縁をいただき、君と同じ学校で学んだことは、まるで昨日のことのように思われるのに、君はもう私たちを残して、どこかへ行ってしまった。

 美しいものは壊れやすいというが、君ほど情に厚く、君ほど心の清らかな人はいなかった。それなのに、なぜ命まで君のようにはかなく短いのだろうか。

 君は本当に私たちの光であった。君がいたからこそ私たちには誇りがあり、君がいたからこそ私たちには希望があった。ああ、君を失った今、何を誇りとし、何を光として生きればよいのだろうか。

 南山の戦いが終わったあと、君からの便りにはこう書かれていた。「最前線にいながら、一発の弾にも当たらなかった。もし幸運にも無事に帰還できる時があれば、自分もぜひ『セヴァストポール』を書きたい」と。私たちは、天の加護が君にあると深く信じ、また再会の日が来ることを疑わなかった。

 しかし、疑いもしなかった再会の日はついに来ず、思いもよらなかった悲報が突然届いた。私たちは君の死を聞いて、二度三度と疑い、戸惑った。「あの友がどうして死ぬはずがあろうか」と。今になってもなお、本当に君が亡くなったとは信じることができない。

 ああ、しかし君は逝ってしまった。陣中からの手紙で「自分は悪運が強い」と誇らしげに書いていた、その墨の跡もまだ乾かぬうちに、君は遠く去って声もなくなってしまった。ああ、私たちはいつの日に再び君の『セヴァストポール』を読むことができるのであろうか。

 思い返せば三月七日の夜、君の出征を見送って新橋へ行った。灯りは星のように輝き、人々は影のように行き交っていた。手を取って君の前途の栄光を祝った時、歓声が湧いているようであったが、仲間たちは互いに顔を見合わせたまま言葉もなく、ただ静かに君の後ろ姿を見送った。君は煙る雲の中へ消えて、そのまま帰ってこなかった。軍服姿の君はいまも目の前に浮かぶのに、もう永遠に会う時はないのであろうか。

 人の運命というものは、もともと定めがたい。君の生涯は稲妻の跡のように短かったとはいえ、君の死は実に花のように美しかった。栄光ある死であったことについては、君自身にとっても悔いはなかったであろう。

 ああ、それでも私たちの思いは永遠に尽きることがなく、君は永遠に帰ってこない。今あらためて君の生前の志を思うと、どうして無念の思いが尽きようか。どうか誓わせてほしい。君の志を無駄にはしないと。どうか君の魂の光によって、君の志のほんの一部でも実現することができるように。たとえ死後の世界によって隔てられていても、心は通い合い、永遠に変わることはないであろう。どうか安らかに受け取ってほしい。

 ※『セヴァストポール』は、トルストイ の作品(クリミア戦争中、ロシア軍の拠点都市セヴァストポリでの戦争体験をもとに書かれた作品)を指していると思われる。トルストイ自身の従軍経験をもとに戦場の現実や兵士たちの心理、戦争の悲惨さが描かれている。
 

 

 翌年の明治38年、彼の死を悼んで、周囲の人たちによって編まれた遺稿集『宗教と文学』が発表された。そこには、坪内孤景が執筆した論文などの文章のほかに、友人を含む関係者が文章を寄せており、中島孤島もそこに上記の弔辞を「孤景子を弔ふ」と題して載せている。

 また、坪内孤景が戦地から親しい友人たちに送った書簡もこの遺稿集のなかで公開されているが、そのなかに孤島宛の葉書の文章もある。

 戦地の逼迫した状況のなかでも、孤景が家族や友人に便りを書き送り、自らの無事を随時知らせている様子が伝わってくる。

 

 ゛中島茂一宛 明治三十七年七月二十日

その後御変りもなく候や小生無事、本月に入りては蓋平占領の戦闘に加はり候目下当面の敵と触接し居り日として西に東に時々銃砲の音を聴かぬことなし、かく筆とる間もぢき右手の方にあたりて一斉射撃の音かまびすしく、小生等は寸刻も油断のひま無之候、先日薄田君の許へ山鳥の尾のしだり尾のと書き送りぬ悉しくはそれにて御承知下されたく候、郵便が出るとのことゆゑ匆々一筆如斯候

                   前哨線なる森林中の幕営内にて

 七月廿日            雨やうやう晴れたる夕まぐれ

  中島茂一様                     少尉 坪内鋭雄 ”

 

 ※薄田君・・・薄田斬雲 坪内鋭雄および中島孤島の同級生

 (以下は現代語訳)

 その後、お変わりなくお過ごしでしょうか。私は無事です。今月は戦地に出入りしており、日頃の戦闘にも加わって、現在は敵と直接接触する前線にいます。毎日のように、西や東の方角から銃や砲撃の音を聞かない日はありません。こうして手紙を書いている今も、すぐ右手の方で一斉射撃の音が激しく響いています。私たちは一瞬たりとも油断のできない状況にあります。先日、薄田君が話していたように、「山鳥の尾のしだり尾」とだけ書き送ります。その意味は、それで察してください。

郵便が出るというので、取り急ぎ一筆したためました。

                    前線の森の中の陣営にて

                  雨がようやく晴れてきた夕暮れどき

※「山鳥の尾のしだり尾」は、古歌に由来する言い回しで、「長く続く」「長く思い続ける」といった含みを持つ表現。この文脈では、検閲を避けつつ心情をほのめかした可能性がある。

 

 このような便りを書いた数日後に坪内孤景の命は奪われてしまった。中島孤島がこの便りを受け取った時にはすでに孤景はこの世にいなかったということになろう。

 孤島にとって、この親友の突然の死は大きな衝撃であったことは想像に難くない。

 孤島は、当時執筆を連載していた『読売新聞』にも、親友孤景の死を悼む文章を書いている。上記弔辞の文と内容的にはかなり重なるが、引用してみる。

 

 ゛坪内孤景逝く       孤島 

 遼東半島の報に接してより既に百日、数度の戦場に微傷(かすりきず)一つ身に受けざりしを悪運強き故なりと冷(ひや)かす将校連もありとの音信(おとづれ)に、友が武運のいや長きを喜びしも昨日今日、突如として戦死の悲報を耳にして我れは二たび疑ひ三たび惑へり。

鳴呼君誠に死せる乎(か)、南山に死せず、得利寺に傷(きずつ)かざりし君の如何(いか)なれば大石橋(だいせききょう)に死せる。

南山は君が運定めの戦場なりき、君が消息を思ひて我が胸は踴(おど)れり、第一線に馳騁(ちてい)して身に一弾をも蒙(こうむ)らざりし君が幸運の報に接して、君が身を危(あやぶ)むの念は夢の如く消え行(ゆ)きぬ、鳴呼君死せずと。かくて得利寺の戦我が軍の死傷夥(おびただ)しきを耳にして、我が胸はまた踴(おど)らざりき、君が無事の報を得て我が心は愈々(いよいよ)期する所あり、我が友遂に死せずと。

今にして忽(たちま)ち君が戦死の報を聞いて、我が心疑ひ、我が心惑へり。嗚呼君真に死せる乎(か)、其の既に疑(うたがい)を容(い)るべからざるを知つて、尚ほ且つ信ずるを欲せず、我れは今にして尚ほ君が死を疑ふの念に堪えず。

思ふ、三月七日の夜、君を新橋の闇に送りて、暫し別離の盃を挙ぐ、楼上人稀(まれ)にして、卓を囲んで語る者数五、斬雲(ざんうん)語らず、白雨(はくう)言はず、筑濱(ちくひん)ひとり盃(はい)を含んで談ずるも、談笑頗(すこぶ)る平生(へいぜい)の態(さま)に似ず、君は莞爾(かんじ)として時に唇を開く、電燈の光静かに盃(はい)に落ちて、泡だつ酒の水よりも淡かりき。

君と一杯の半(なかば)を分(わか)ちて、君が前途の光栄を祝せしは昨日(きのう)の如くなるに、君が戎衣(じゅうい)の姿尚ほ眼前に残りて、また永(とこし)へに相逢ふの期なき乎(か)。※戎井・・戦場に出る際に着用する衣服や甲冑、あるいは軍服全般を指す

昨夜君が凶報を聞いて集まるもの数(すう)四、遂に再び彼の五つの数(すう)を充たすの時なきを思うて、盃中(はいちゅう)のもの徒らに冷えたり。

思は永へに帰らず、黄金(こがね)の勲章(かざり)、君が屍(かばね)を飾るも、嗚呼我れに於て何するものぞ。寧ろ一毫の君が名を飾るものなきも、再び君が昔日の音容に接することあらば、我れに於て寧ろ無上の光栄たらん。

嗚呼美くしきもの何ぞ脆きや、瓦礫徒らに存(そん)じて、永へに天意を疑はしむるもの、嗚呼果して天の意なる乎(か)。”

(『読売新聞』明治37年(1904)8月28日「甲辰文学」より)

 (以下は現代語訳)

 ゛遼東半島での戦いの知らせを聞いてから、すでに百日が過ぎた。幾度もの戦場をくぐり抜けながら、かすり傷一つ負わないのは運が強いからだ、と冗談めかして語る将校たちもいるという便りを受け、私は友の武運がますます長く続くことを喜んでいた。しかしそれもつい昨日今日までのことで、突然その友の戦死の報を耳にし、私は二度疑い、三度惑ったのである。

 ああ、君は本当に死んでしまったのか。南山でも死なず、得利寺でも傷一つ負わなかった君が、どうして大石橋で死んだというのか。

 南山の戦いこそ、君の運命を決める戦場だと思っていた。君の消息を案じて私は胸を高鳴らせていたが、最前線を駆け巡りながら一発の弾も受けなかったという幸運の知らせを聞き、君の身を案じる気持ちは夢のように消えていった。ああ、君は死ななかったのだ、と。

 さらに得利寺の戦いで、我が軍に非常に多くの死傷者が出たと聞いたときも、私はまた胸を騒がせた。しかし君が無事だという報を得て、私はますます確信した。私の友はついに死なないのだ、と。

 ところが今になって突然、君の戦死の報を聞き、私の心は疑い、惑っている。その知らせがもはや疑いようのない事実だと知りながら、それでもなお信じたくない。私は今なお、君の死を疑わずにはいられないのである。

 思い返せば、三月七日の夜、私は君を新橋の闇の中へ送り出し、しばし別れの杯を交わした。二階座敷には人もまばらで、卓を囲んでいたのは五人ばかり。斬雲は黙り込み、白雨も口を開かず、筑濱だけが杯を手に語っていたが、その談笑もいつものような明るさはなかった。君は静かに微笑み、ときおり口を開いた。電灯の光は静かに杯へ落ち、その光は泡立つ酒よりもなお淡く見えた。

 私は君と杯を分け合い、君の前途の栄光を祝った。それはまるで昨日のことのようである。君の軍服姿はいまなお目の前に残っているのに、もう永遠に再会する時は来ないのだろうか。

 昨夜、君の訃報を聞いて集まった者は四人だった。あの夜の五人が再びそろう時は、もう永遠に来ないのだと思うと、杯の酒もただ冷えていくばかりであった。

 思えば、君はもう二度と帰ってこない。黄金の勲章が君の亡骸を飾ったとしても、ああ、それが私にとって何になるというのか。たとえ君の名を飾るものが何一つなくとも、もう一度だけでも昔のままの君の姿や声に接することができるなら、それこそ私にとってこの上ない栄光であろう。

 ああ、美しいものはなぜこれほど脆いのか。くだらぬものばかりが無意味に残り続け、人に天の意思を疑わせる。ああ、これが本当に天の定めなのだろうか。”

 
 この文章に登場する孤景の友人薄田斬雲、西山筑濱もそれぞれ遺稿集『宗教と文学』に追悼の文章を寄せている。