中島孤島の東京専門学校時代において、親友と呼べる友人の一人が同級生の坪内孤景だった。坪内孤景の本名は、鋭雄(としお)といい、坪内逍遙の甥だった(次兄の長男)。
孤景は叔父である逍遙の家に寄宿して東京専門学校に通い、明治32年(1899)に首席で卒業した。学校の成績でいうならば、中島孤島の順位は坪内孤景の次であったらしい。
卒業後は、志願兵として1年間従軍し、その後は仙台の中学(現在の中学+高校前半に近い)教師となって勤務した。しかし、文学をあきらめることはできず、明治36年には教師の職を辞して東京に舞い戻り、再び中島孤島やほかの同級生たちとの親交を深めた。
このとき、『文学研究法』という文学理論書を執筆している。
しかし、明治37年(1904)に日露戦争が始まると、孤景は陸軍少尉として召集され中国(清国)へ赴任することになる。そして、その年の7月24日に大石橋の戦で戦死してしまう。25歳の若さだった。
8月30日、坪内孤景の葬儀は青山墓地で執り行われたが、中島孤島はそこで同級生総代として弔辞を読んだ。
この弔辞は、同年10月発行の『新小説』に「孤景を悼む」というタイトルで掲載されている。
゛孤景子を悼む 孤島
得難きの縁を此の世に享けて、君と学窓を共にせしは、尚ほ昨日の如くなるに、
君ははや我等を遺(す)てゝ何處(いずく)にか行(ゆ)ける。
美(うる)はしきものは脆しといふ、情厚きこと君の如く、心清きこと君の如くにして、命(めい)薄きこと如何(いか)なれば君の如きや。
君は誠に我等の光なりき、君ありて我等に誇(ほこり)ありき、君ありて我等に光ありき、あゝ君亡うしてまた何の誇あらん、また何の光あらん。
南山の戦終るや、君が消息は語りて曰く、第一線にありて身に一弾を蒙らず、幸にして凱旋の時あらば、我れもまた願はくは我が『セヴァストポール』を書かんと。我等は深く天佑の君が身にあるを信じて、是れよりまた再会の日あるを疑はざりき。
疑はざりし再会の日は遂に来(きた)らずして、思はざりし凶報は突如として到りぬ。我等は君の訃(ふ)に接して、二(ふた)たび疑ひ三たび惑へり、我が友如何(いか)で死せんと。今にして尚ほ誠に君亡きを信ずること能はず。
あゝされど君は逝(ゆ)けり、陣中書を裁して「悪運強し」と誇りたる君が墨痕(ぼくこん)の尚ほ未(ま)だ乾かざるに、君は杳(よう)として早く聲なし。あゝ何の日か我等はまた君が『セヴァストポール』を読まん。
思ふ三月七日の夜、君が出征の門出を送りて新橋に到る。燈影星(とうえいぼし)の如くにして、人は影の如く去来す。手を執つて君が前途の光栄を祝する時、歓聲湧くが如きも、同人相顧みて語なし、悄(しょう)として君が後影(うしろかげ)を見送(まも)る。君は雲烟(うんえん)の裡(うち)に没して、また帰らず。君が征衣の姿尚ほ眼前にありて、また永へに相逢ふの期なき乎(か)。
人生のこと固(もと)より定め難し、君が生は電(いなずま)の痕(あと)なきが如しと雖(いえども)、君が死は誠に花の如く美(うる)はしかりき。光栄の死君に於て寧ろ憾(うら)む所なけん。
あゝされど我等が思(おもい)は永へに盡(つ)きずして、君は永へに帰らず、今にして君が生前の志を思へば、恨(うらみ)何ぞ盡きん。願はくは誓つて君が志(こころざし)を空(むなしゅ)うすることなけん、願わくは君が霊(みたま)の光によつて君が志の萬一を成すことを得ん。幽冥境(ゆうめいきょう)を隔(へだ)つるとも心は相通じて永へに渝(かわ)ることあらじ、願はくは享(う)けよ。”
(『新小説』明治37年10月号より)
(以下は現代語訳)
゛この世で得がたい縁をいただき、君と同じ学校で学んだことは、まるで昨日のことのように思われるのに、君はもう私たちを残して、どこかへ行ってしまった。
美しいものは壊れやすいというが、君ほど情に厚く、君ほど心の清らかな人はいなかった。それなのに、なぜ命まで君のようにはかなく短いのだろうか。
君は本当に私たちの光であった。君がいたからこそ私たちには誇りがあり、君がいたからこそ私たちには希望があった。ああ、君を失った今、何を誇りとし、何を光として生きればよいのだろうか。
南山の戦いが終わったあと、君からの便りにはこう書かれていた。「最前線にいながら、一発の弾にも当たらなかった。もし幸運にも無事に帰還できる時があれば、自分もぜひ『セヴァストポール』を書きたい」と。私たちは、天の加護が君にあると深く信じ、また再会の日が来ることを疑わなかった。
しかし、疑いもしなかった再会の日はついに来ず、思いもよらなかった悲報が突然届いた。私たちは君の死を聞いて、二度三度と疑い、戸惑った。「あの友がどうして死ぬはずがあろうか」と。今になってもなお、本当に君が亡くなったとは信じることができない。
ああ、しかし君は逝ってしまった。陣中からの手紙で「自分は悪運が強い」と誇らしげに書いていた、その墨の跡もまだ乾かぬうちに、君は遠く去って声もなくなってしまった。ああ、私たちはいつの日に再び君の『セヴァストポール』を読むことができるのであろうか。
思い返せば三月七日の夜、君の出征を見送って新橋へ行った。灯りは星のように輝き、人々は影のように行き交っていた。手を取って君の前途の栄光を祝った時、歓声が湧いているようであったが、仲間たちは互いに顔を見合わせたまま言葉もなく、ただ静かに君の後ろ姿を見送った。君は煙る雲の中へ消えて、そのまま帰ってこなかった。軍服姿の君はいまも目の前に浮かぶのに、もう永遠に会う時はないのであろうか。
人の運命というものは、もともと定めがたい。君の生涯は稲妻の跡のように短かったとはいえ、君の死は実に花のように美しかった。栄光ある死であったことについては、君自身にとっても悔いはなかったであろう。
ああ、それでも私たちの思いは永遠に尽きることがなく、君は永遠に帰ってこない。今あらためて君の生前の志を思うと、どうして無念の思いが尽きようか。どうか誓わせてほしい。君の志を無駄にはしないと。どうか君の魂の光によって、君の志のほんの一部でも実現することができるように。たとえ死後の世界によって隔てられていても、心は通い合い、永遠に変わることはないであろう。どうか安らかに受け取ってほしい。
※『セヴァストポール』は、トルストイ の作品(クリミア戦争中、ロシア軍の拠点都市セヴァストポリでの戦争体験をもとに書かれた作品)を指していると思われる。トルストイ自身の従軍経験をもとに戦場の現実や兵士たちの心理、戦争の悲惨さが描かれている。
翌年の明治38年、彼の死を悼んで、周囲の人たちによって編まれた遺稿集『宗教と文学』が発表された。そこには、坪内孤景が執筆した論文などの文章のほかに、友人を含む関係者が文章を寄せており、中島孤島もそこに上記の弔辞を「孤景子を弔ふ」と題して載せている。
また、坪内孤景が戦地から親しい友人たちに送った書簡もこの遺稿集のなかで公開されているが、そのなかに孤島宛の葉書の文章もある。
戦地の逼迫した状況のなかでも、孤景が家族や友人に便りを書き送り、自らの無事を随時知らせている様子が伝わってくる。
゛中島茂一宛 明治三十七年七月二十日
その後御変りもなく候や小生無事、本月に入りては蓋平占領の戦闘に加はり候目下当面の敵と触接し居り日として西に東に時々銃砲の音を聴かぬことなし、かく筆とる間もぢき右手の方にあたりて一斉射撃の音かまびすしく、小生等は寸刻も油断のひま無之候、先日薄田君の許へ山鳥の尾のしだり尾のと書き送りぬ悉しくはそれにて御承知下されたく候、郵便が出るとのことゆゑ匆々一筆如斯候
前哨線なる森林中の幕営内にて
七月廿日 雨やうやう晴れたる夕まぐれ
中島茂一様 少尉 坪内鋭雄 ”
※薄田君・・・薄田斬雲 坪内鋭雄および中島孤島の同級生
(以下は現代語訳)
その後、お変わりなくお過ごしでしょうか。私は無事です。今月は戦地に出入りしており、日頃の戦闘にも加わって、現在は敵と直接接触する前線にいます。毎日のように、西や東の方角から銃や砲撃の音を聞かない日はありません。こうして手紙を書いている今も、すぐ右手の方で一斉射撃の音が激しく響いています。私たちは一瞬たりとも油断のできない状況にあります。先日、薄田君が話していたように、「山鳥の尾のしだり尾」とだけ書き送ります。その意味は、それで察してください。
郵便が出るというので、取り急ぎ一筆したためました。
前線の森の中の陣営にて
雨がようやく晴れてきた夕暮れどき
※「山鳥の尾のしだり尾」は、古歌に由来する言い回しで、「長く続く」「長く思い続ける」といった含みを持つ表現。この文脈では、検閲を避けつつ心情をほのめかした可能性がある。
このような便りを書いた数日後に坪内孤景の命は奪われてしまった。中島孤島がこの便りを受け取った時にはすでに孤景はこの世にいなかったということになろう。
孤島にとって、この親友の突然の死は大きな衝撃であったことは想像に難くない。
孤島は、当時執筆を連載していた『読売新聞』にも、親友孤景の死を悼む文章を書いている。上記弔辞の文と内容的にはかなり重なるが、引用してみる。
゛坪内孤景逝く 孤島
遼東半島の報に接してより既に百日、数度の戦場に微傷(かすりきず)一つ身に受けざりしを悪運強き故なりと冷(ひや)かす将校連もありとの音信(おとづれ)に、友が武運のいや長きを喜びしも昨日今日、突如として戦死の悲報を耳にして我れは二たび疑ひ三たび惑へり。
鳴呼君誠に死せる乎(か)、南山に死せず、得利寺に傷(きずつ)かざりし君の如何(いか)なれば大石橋(だいせききょう)に死せる。
南山は君が運定めの戦場なりき、君が消息を思ひて我が胸は踴(おど)れり、第一線に馳騁(ちてい)して身に一弾をも蒙(こうむ)らざりし君が幸運の報に接して、君が身を危(あやぶ)むの念は夢の如く消え行(ゆ)きぬ、鳴呼君死せずと。かくて得利寺の戦我が軍の死傷夥(おびただ)しきを耳にして、我が胸はまた踴(おど)らざりき、君が無事の報を得て我が心は愈々(いよいよ)期する所あり、我が友遂に死せずと。
今にして忽(たちま)ち君が戦死の報を聞いて、我が心疑ひ、我が心惑へり。嗚呼君真に死せる乎(か)、其の既に疑(うたがい)を容(い)るべからざるを知つて、尚ほ且つ信ずるを欲せず、我れは今にして尚ほ君が死を疑ふの念に堪えず。
思ふ、三月七日の夜、君を新橋の闇に送りて、暫し別離の盃を挙ぐ、楼上人稀(まれ)にして、卓を囲んで語る者数五、斬雲(ざんうん)語らず、白雨(はくう)言はず、筑濱(ちくひん)ひとり盃(はい)を含んで談ずるも、談笑頗(すこぶ)る平生(へいぜい)の態(さま)に似ず、君は莞爾(かんじ)として時に唇を開く、電燈の光静かに盃(はい)に落ちて、泡だつ酒の水よりも淡かりき。
君と一杯の半(なかば)を分(わか)ちて、君が前途の光栄を祝せしは昨日(きのう)の如くなるに、君が戎衣(じゅうい)の姿尚ほ眼前に残りて、また永(とこし)へに相逢ふの期なき乎(か)。※戎井・・戦場に出る際に着用する衣服や甲冑、あるいは軍服全般を指す
昨夜君が凶報を聞いて集まるもの数(すう)四、遂に再び彼の五つの数(すう)を充たすの時なきを思うて、盃中(はいちゅう)のもの徒らに冷えたり。
思は永へに帰らず、黄金(こがね)の勲章(かざり)、君が屍(かばね)を飾るも、嗚呼我れに於て何するものぞ。寧ろ一毫の君が名を飾るものなきも、再び君が昔日の音容に接することあらば、我れに於て寧ろ無上の光栄たらん。
嗚呼美くしきもの何ぞ脆きや、瓦礫徒らに存(そん)じて、永へに天意を疑はしむるもの、嗚呼果して天の意なる乎(か)。”
(『読売新聞』明治37年(1904)8月28日「甲辰文学」より)
(以下は現代語訳)
゛遼東半島での戦いの知らせを聞いてから、すでに百日が過ぎた。幾度もの戦場をくぐり抜けながら、かすり傷一つ負わないのは運が強いからだ、と冗談めかして語る将校たちもいるという便りを受け、私は友の武運がますます長く続くことを喜んでいた。しかしそれもつい昨日今日までのことで、突然その友の戦死の報を耳にし、私は二度疑い、三度惑ったのである。
ああ、君は本当に死んでしまったのか。南山でも死なず、得利寺でも傷一つ負わなかった君が、どうして大石橋で死んだというのか。
南山の戦いこそ、君の運命を決める戦場だと思っていた。君の消息を案じて私は胸を高鳴らせていたが、最前線を駆け巡りながら一発の弾も受けなかったという幸運の知らせを聞き、君の身を案じる気持ちは夢のように消えていった。ああ、君は死ななかったのだ、と。
さらに得利寺の戦いで、我が軍に非常に多くの死傷者が出たと聞いたときも、私はまた胸を騒がせた。しかし君が無事だという報を得て、私はますます確信した。私の友はついに死なないのだ、と。
ところが今になって突然、君の戦死の報を聞き、私の心は疑い、惑っている。その知らせがもはや疑いようのない事実だと知りながら、それでもなお信じたくない。私は今なお、君の死を疑わずにはいられないのである。
思い返せば、三月七日の夜、私は君を新橋の闇の中へ送り出し、しばし別れの杯を交わした。二階座敷には人もまばらで、卓を囲んでいたのは五人ばかり。斬雲は黙り込み、白雨も口を開かず、筑濱だけが杯を手に語っていたが、その談笑もいつものような明るさはなかった。君は静かに微笑み、ときおり口を開いた。電灯の光は静かに杯へ落ち、その光は泡立つ酒よりもなお淡く見えた。
私は君と杯を分け合い、君の前途の栄光を祝った。それはまるで昨日のことのようである。君の軍服姿はいまなお目の前に残っているのに、もう永遠に再会する時は来ないのだろうか。
昨夜、君の訃報を聞いて集まった者は四人だった。あの夜の五人が再びそろう時は、もう永遠に来ないのだと思うと、杯の酒もただ冷えていくばかりであった。
思えば、君はもう二度と帰ってこない。黄金の勲章が君の亡骸を飾ったとしても、ああ、それが私にとって何になるというのか。たとえ君の名を飾るものが何一つなくとも、もう一度だけでも昔のままの君の姿や声に接することができるなら、それこそ私にとってこの上ない栄光であろう。
ああ、美しいものはなぜこれほど脆いのか。くだらぬものばかりが無意味に残り続け、人に天の意思を疑わせる。ああ、これが本当に天の定めなのだろうか。”
この文章に登場する孤景の友人薄田斬雲、西山筑濱もそれぞれ遺稿集『宗教と文学』に追悼の文章を寄せている。