中島孤島の軌跡

明治生まれの文学者中島孤島の作品と人生をたどります

「長谷川二葉亭を送る」

 中島孤島は、送別会に参加することで初めて二葉亭四迷に実際に会う機会を得た。

 二葉亭四迷のロシア行きに際しては、各文芸誌もいろいろな形でそれを取り上げた。

 文芸誌の一つ『趣味』(明治41年7月号)は、「露國に赴かれたる長谷川二葉亭氏」と題して、文士たちにアンケートのような形でロシアに赴く長谷川二葉亭(二葉亭四迷)についての感想を求めている。

 

 そのなかで中島孤島は、「真面目な人」と題して下記の文章を寄せている。

 ゛二葉亭には作の上では昔から昵懇(ちかづき)だつたが、顔を見たのは送別會の晩が始めてだ。一寸(ちょっと)會つて直ぐ別れたのだから細かい點の分(わか)らう筈はないが、兎に角「眞面目な人」といふだけは分る。尤(もっと)もこれは作や談話を讀んだばかりでも分るが、二葉亭が少くとも今の文學者間に見るやうな陽氣な連中でないといふ感じは顔を見て一層強められた。恐く二葉亭は決して機敏な人ではあるまい、非常に鈍い人で、十年も二十年も同じ所に立つて同じ疑問を孵(かえ)さう孵さうとして、外(ほか)へは擴(ひろ)まらずに内へ内へと入つて行(ゆ)く人だらう。其(その)証拠には『浮雲』時代から「其面影」に至るまで大した変化がない、材料から言つても作風から言つても同じ所を往来してゐる風(ふう)が見える。逍遙が千變萬化一作毎(ごと)に方面を變へて行(ゆ)くのと比べて面白い對照だと思ふ。

恁(こ)ういふ人だから何(ど)うも作には向かない、あの晩も「自分にはもともと文學が向かないのかもしれない・・・タレントの無いのを無理にやらうとするからだ」と言ふやうなことを言つてゐられたが、全く然(そ)う思ふに違ひない。何かやるにノホホンではやつてゐられない、無解決な態度では何(ど)うしても辛抱がならない。といふ質(たち)の人に違(ちがい)ない。
 いつか「太陽」に出た談話の中(うち)にも「今の自然主義が人生に觸れやうといふのはよいが、文藝の上作品の上から人生に觸れる必要を感じて人生に觸れなくちやならんと考へて来たのではまだまだ駄目だ、藝術よりも何よりも自分が何(ど)うしても人生に觸れなくちやならんといふ要求を感じて、其の実感の結果が作の上に表はれるといふのでなくちや本物でない」といふやうなことがあつたが、實に同感だ。今のやうな藝術本位の自然主義は何(なん)にもならない、同じ小さな圏の中(うち)をぐるぐる廻りをしてゐるやうなものだ。「文學を自分の死場所とは思へない」とは今の文壇に對する一大警告だと思ふ。”
 (以下は現代語訳)

゛二葉亭とは作品の上では以前から親しみを感じていたが、実際に顔を見たのは送別会の夜が初めてだった。ほんの少し会ってすぐ別れたので、細かい人物像までは分かるはずもないが、とにかく「まじめな人だ」ということだけは分かった。もっとも、それは作品や談話を読んだだけでも分かることだが、二葉亭が少なくとも今の文学者たちによく見られるような陽気なタイプではないという印象は、実際に顔を見てさらに強くなった。

 おそらく二葉亭は決して機敏な人ではないだろう。むしろ非常にじっくりした人で、十年も二十年も同じところに立って、同じ疑問を抱えながら考え続け、外へ広がるよりも内へ内へと深く入り込んでいくような人なのだろう。その証拠に、『浮雲』の時代から「其面影」に至るまで、それほど大きな変化がない。題材の面から見ても作風の面から見ても、同じ領域を行き来しているように見える。これが、一作ごとにさまざまに作風や方向を変えていく逍遙と比べると、非常に面白い対照である。

 こういう人だから、どうも創作には向いていないのだろう。あの晩も「自分にはもともと文学が向いていないのかもしれない……才能がないのに無理にやろうとしているのだ」といったことを話していたが、本人も本当にそう感じているに違いない。何かをするにも、おおらかに構えてはいられず、答えの出ない状態のままではどうしても我慢できない、そういう性質の人なのだろう。

 以前『太陽』に載った談話の中でも、「今の自然主義が人生に触れようとする姿勢はよいが、文学作品として人生に触れる必要を感じたから人生に触れようというのではまだ不十分だ。芸術のためというより、自分自身がどうしても人生に触れずにはいられないという切実な要求があって、その実感の結果として作品に表れるのでなければ本物ではない」といった趣旨のことを述べていたが、まったく同感である。

 今のように芸術そのものを目的にした自然主義では、何の意味もない。同じ狭い範囲の中をぐるぐる回っているようなものだ。「文学を自分の死に場所とは思えない」という言葉は、今の文壇に対する重大な警告である。”

 

 孤島はまた別の文芸誌『東西南北』(明治41年7月号)にも「長谷川二葉亭を送る」と題した長い文章を書いている。主旨としては上記の内容と重なる部分も多いが、二葉亭四迷の作品についても踏み込んで書いているので、引用してみよう。

 ゛(前略)二葉亭の作と翻譯とは、以前から愛讀した。二葉亭の経歴と人物とに就ても、直接に二葉亭を知つてゐる師友から、屡々(しばしば)聞いたことがある。其自分から面白い人だとは思つて居た。或點に於ては確かに偉い人だと思つて居た。一度會つて話を聞きたいとも思つた。併し二葉亭の思想と我々の思想と同じ鼓動を打つて居やうとは思はなかつた。

 初めてそれを感じたのは去年の暮朝日新聞で、『平凡』を讀んだ時だ。其時に思つた、これは自然主義の上を行(や)つて居るんだなと『平凡』には若い自然派に見るやうな破壊的な鋭い所は無い、のみならず、折々自然派を冷笑するやうな所がある、自然派ばかりではない、一切の文學を見貶(みくび)るやうな氣が見えた。所が全篇を讀んで行くと其の根本の調子は飽(あく)までも自然主義で行(や)つて居る。其の調子が如何(いか)にも沈着(おちつ)いて、如何にも真面目で、世間を冷笑するやうで、同時に自分自身を冷笑してゐるやうで、それがまた現在讀んで居る我々の心をも見抜いて居るやうで、何とも言えない心持をさせる、讀み了(おわ)つて考へた、考へて見たが何を言はれたのか分らない。

 其の次に讀んだのが、『太陽』に出た談話だ。『日本人には革命は夢にも出来ない。』オヤ、そんなことを思つて居るのかと思つた。(中略)

 『もう一段真剣にならなくちやだめだ』二葉亭は確(たしか)に此の困難を見抜いて居る。「平凡」は藝術を棄(すて)て居る。「平凡」の自白が我々の胸に犇々(ひしひし)と迫るのは其處(そこ)に虚偽の無い証拠ではないか。

 それにも拘らず彼は送別會の席上で、自分が文學者でないと言ふ意味を述べて『自ら己を欺いて居る所もあらう』と言つた。『文學が嫌ひだといふのは、つまり文學が解らないといふことなのだ』とも言つた。『筆を執つて紙に蒞(のぞ)むと何(ど)うも真剣になれない、何處(どこ)かに空虚があるやうに思ふ』とも言つた。

 其の時初めて二葉亭に會つて、其の人の口から其の人の話を聞いて、二葉亭は我々の思想上の先覺者だといふ感が愈々(いよいよ)深くなつた。

 我々は最早文藝では満足が出来ない。「文學」が嫌だといふのは、文學が解らないからだ』。併し世間何人か『文學が解る』と言ひ得るものがあるか。解らぬ文學に満足し得るものは幸福な人である。

 こんなことを思つて、書いてゐる時に、我が二葉亭はもう日本には居ない。遙(はるか)に露西亜の空を望んで無量の希望と活動の力に充ち輝いて居る二葉亭の面影が眼に見えるやうだ。「日本人には革命は夢にも出来ない』——此の一語の中には無限の意味がある。” (『東西南北』明治41年7月1日より)

(以下は現代語訳)

 ゛(前略)二葉亭の作品や翻訳は以前から愛読していた。また、二葉亭の経歴や人柄についても、直接彼を知っている師や友人からたびたび聞いていたので、もともと興味深い人物だと思っていたし、ある点では確かに偉大な人だとも思っていた。一度会って話を聞いてみたいとも思っていた。しかし、二葉亭の思想が自分たちの思想と同じ方向に進んでいるとは思っていなかった。

 それを初めて感じたのは、去年の暮れに朝日新聞で『平凡』を読んだ時である。その時、「これは自然主義をさらに一歩進めたものだ」と思った。『平凡』には、若い自然主義作家たちに見られるような鋭い破壊性はない。それどころか、ときには自然主義を冷ややかに笑っているようなところさえある。自然主義だけでなく、あらゆる文学そのものを軽く見ているようにも感じられた。ところが、作品全体を読んでいくと、その根本の調子はあくまで自然主義である。その調子は実に落ち着いていて、実にまじめであり、世間を冷笑しているようでいて、同時に自分自身をも冷笑しているようでもある。そしてまた、それが今これを読んでいる自分たちの心まで見抜いているようで、何とも言えない気持ちにさせられる。読み終えてから考えてみたが、結局何を言われたのかははっきり分からなかった。

 次に読んだのは、『太陽』に載った談話である。そこに「日本人には革命は夢にもできない」とあった。なるほど、二葉亭はそんなことを考えていたのかと思った。

(中略)

「もう一段真剣にならなければだめだ」と、二葉亭は確かにこの問題を見抜いていた。『平凡』は芸術を捨てている。『平凡』の告白が私たちの胸に強く迫ってくるのは、そこに少しも偽りがない証拠ではないか。

 それにもかかわらず、彼は送別会の席で、自分は文学者ではないという意味を説明しながら、「自分で自分を欺いているところもあるだろう」と言った。また、「文学が嫌いだというのは、つまり文学が分からないということなのだ」とも言った。さらに、「筆を取って書こうとすると、どうも真剣になれない。どこかに空虚なものがあるように思う」とも言った。

 その時初めて二葉亭本人に会い、本人の口からその話を聞いて、二葉亭は自分たちの思想の先駆者であるという思いがますます強くなった。

 自分たちはもはや文学だけでは満足できない。「文学が嫌いだ」というのは、文学が分からないからである。しかし、この世に「文学が分かる」と言える人がいったい何人いるだろうか。分からない文学に満足できる人は幸福な人である。

 そんなことを考えながらこれを書いている今、二葉亭はもう日本にはいない。はるかロシアの空の下で、大きな希望と活動の力に満ちて輝いている二葉亭の姿が目に浮かぶようである。「日本人には革命は夢にもできない」――この一言の中には、計り知れないほど深い意味が込められている。”

 
 中島孤島は、この明治41年ごろといえば、何かにつけて自然主義文学の隆盛に対して批判を繰り広げていたが、二葉亭四迷については、その作品や発言から「自然主義文学に与さないどころか、思想的にはむしろもう一歩その先を行っている人だ」と感じだようだ。そして、実際に会ってみてなおのことその感を強くしたということらしい。
 直接的な交流はほとんどなかったとはいえ、二葉亭四迷の文壇内における独特のスタンスと独自の考え方には強く惹きつけられるものがあったのだろう。

 

 

 

二葉亭四迷送別会

 二葉亭四迷は、明治41年6月に朝日新聞社の特派員としてロシアに赴任することになった。

 これを受けて、文壇での友人内田魯庵、田山花袋らが発起人となって、上野の精養軒で送別会が開かれた。

 

 この送別会の様子は、当時の文芸誌から詳細に知ることができる。

(前略)然うした精養軒の一室に二葉亭氏の露西亜行を送るべく、氏が知己の人々も未見の人々も早や概ね集まつて来た。今は定刻五時を半ば過ぎた。

 未見の人?然り氏と未だ相見ざる人々が尠(すく)なからず交つてゐる。「實は僕は主人公を知らないのだが・・・」。「僕も知らないのだよ」。「チツト変なものだね」。「イヤ之を機として知らない人でも何でもいいから集まつて逢はう!と言ふのださうだ」。「成程却つて面白いね」と互に頷き合つてゐる人々がある。

 人々は多く彼方此方に群団(かたま)つて何か気焔を揚げてゐる。隅の方に大人しく腰かけてゐる人もある。遊軍らしく歩き廻る人もある。やがて二葉亭氏が見えた。

 発起人が進んで迎へる。氏は手近な人々から初めて一々挨拶される。其の垢ぬけた応対振に、人々は温かい感じで接した。

 庭へ出て一同撮影した。総勢三十九人。それが濟むと一同食卓に就いた。

 ウエターが頻に歩き廻つて、皿が換へられる、料理が配られる、酒が注がれる。人々の顔が輝いて来る。

 食卓は丁子形に置かれて、その垂直線の端の處に発起人がゐる。それを突當つた頂点の處が二葉亭氏の席で、其の左右なり前面なりに他の者は総て次第なしに着席した。二葉亭氏は話しかける附近の人々に応酬してゐる。発起人側には逍遙、魯庵、花袋氏などが話してゐる。折々泡鳴、宙外、天外などの諸氏の高い声が彼方此方で響く。(中略)

 人々は主客の演説に満足して、又快く杯を挙げた。又一しきり多勢の手がナイフやフオークを電燈に煌めかした。登張竹風氏のテーブル、スピーチは人々を哄笑させた。樋口龍峡氏——二葉亭氏の右隣——の発声で、「二葉亭氏万歳」を三呼して一同祝盃を挙げた。(後略)

(『趣味』明治41年7月号「二葉亭氏送別會」より)

 

 発起人の一人である田山花袋も送別会のことを後に回想している。それを読むと、当時の二葉亭四迷の文壇における存在感がどのようなものであったかが伝わってくるので、引用してみよう。

 ゛文壇に於ける氏の位置は、丁度彗星のやうであつた。立派な才筆を抱いて、当時の作家の最も高い地歩を占めて居りながら、氏はいつも深く韜晦(とうかい)して、決して文壇の表面にはその形を現はさなかつた。その癖、新しい時代の人達は、皆な間接に氏に感化させられた・・・。(中略)

 しかし彗星のやうな氏は、滅多にその作品を公(おおやけ)にしなかつた。「浮雲」以後は、久しく筆を創作に絶つた。そして十年ほどしてから、すぐれたあの「片戀」の翻訳を公にした。それから又五六年は沈黙した。やがてゴルキイの翻訳が出た。そして最近に、「其面影」「平凡」の二作を出した。

 かういふ風であるから、氏には敵といふものはなかつた。敵をつくるやうな巴渦(うず)やジャアナリズムの中に氏は決して入つて行かなかつた。従つてその送別會が、明治文壇でのあらゆる送別會に比して盛んであつた理由もわかる。

 その上野の精養軒の送別會には、鷗外氏と露伴氏と漱石氏とを除いた外は、すべてあらゆる派の文士が出席した。新しい人も、古い人も・・・。”

        (田山花袋『東京の三十年』博文館 1917(大正6)年6月 より)

 

 また、別の人の回想録からも、二葉亭四迷の人となりが想像できるので、引用してみる。

 中島孤島の東京専門学校の後輩にあたる中村星湖である。

゛ 明治文壇雑記(一)

 二葉亭先生、泡鳴氏、孤島氏、宙外氏   

                              中村星湖               

 (前略)

 あの送別会で、主賓の二葉亭先生がどんな表情をしておられ、どんな挨拶をされたか、私はハッキリ記憶しない。それより二、三年前に、先生に選んでいただいた拙い作品に就いて、先生の忌憚ないお教えを願ったがよいと抱月先生にすすめられて、私は始めて本郷区西片町十番地のお宅に伺った。その時、先生の並すぐれて偉大な体格をしておられたのに私はまず驚いたが、それとは反対に、大へん沈鬱な表情や消極的な人生観の持主であられるのに、違った意味の驚きを感じた。

「わたしのところで、はじめて猿楽町に開業した頃、長谷川二葉亭さんが近所にお住いでしたが、とても神経質の方で、夜もよくお休みになれなくて御難渋のように、近所での評判でした。」

 町の開業医の妻である伯母からそんな話を聞いた事があるので、私はそれと始めてお目にかかった折の印象とをつき合せて、何処か内臓に御病気を持っていらっしゃるのではないかと心配した。

 その頃のご様子とは打って変って、精養軒での二葉亭先生は、健康その物のように見えた。(中略)

 それから数日後、二葉亭先生は、新橋駅から露都へ向けて出発された。

「先生、では、お元気で行ってらっしゃい!」

 後から追いすがるようにして私がそう云うと、わざわざ一歩二歩立ち戻って先生は帽子に手を掛けて私と目を合せた。私が二十六、七歳。先生は私の父と同年生れだったようだから、多分四十六、七歳になっておられたろう。”

(筑摩書房編集部編『明治への視点「明治文學全集」月報より』筑摩書房2013年4月より)

 

 これら回想の断片からも読み取れることはいくつかある。

 二葉亭四迷は、「浮雲」で注目を浴びていたにもかかわらず、その後なかなか作品を公にしなかった。

 彼は人並外れて大柄な体格をしていて、神経質な面を持ちながらも、見るからに健康そうだった。

 彼は(当時としては決して)若くはない年齢で、はるか遠いロシアの地へ赴いたということ。

 彼は、文壇のなかにおいては独自の地位を保っており、特定の派に属するような立場もとっていなかった。そのためもあって、逆に送別会には大勢の文士たちが集まった。二葉亭四迷とそれまで面識のない者も少なくなかったが、会は盛大なものとなった。

 などである。

 ちなみに、送別会に参加した人たちの名前は以下のとおりである。

 小杉天外 内田魯庵 坪内逍遙 廣津柳浪 島村抱月 後藤宙外 長谷川天溪

 正宗白鳥 中島孤島 小山内薫 岩野泡鳴 蒲原有明 田山花袋 佐藤北萍

 小栗風葉 徳田秋聲 柳川春葉 吉江孤雁 昇曙夢  登張竹風 樋口龍峡

 杉原岫雲 西本翠蔭 西村央華 三島霜川 中村星湖 川上眉山 中澤臨川

 宮坂風葦 前田木城 相馬御風 伊尾準  戸川秋骨 横山天涯 本橋靖

 蛯原詠三 徳田秋江

 

 

二葉亭四迷送別会 於上野精養軒 明治41年6月6日

   ※二葉亭四迷は前列右から三番目で白い洋服を着ている人物。その左隣が親友の坪内逍遙。
    一人おいて左の黒い洋服の人物が島村抱月。同じく前列左端で眼鏡をかけいるのが、中島孤島。

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『新小説』の「寸鐵」欄(3)

 『新小説』の「寸鐵」欄は、噂話や個人に対する批判だけではなく、文壇内の消息やその事柄についての記者による感想が載る欄でもあった。

 明治42年7月号においては、赴任先ロシアから船で帰国する途上、惜しくも45歳の若さで命を落とした二葉亭四迷について、その死を悼む文章が載っている。

 ※二葉亭四迷・・・1864年元治元年生まれの小説家、翻訳家。代表作は「浮雲」。翻訳作品にツルゲーネフの「あひびき」「めぐりあひ」がある。

 

 ゛長谷川二葉亭氏の逝(ゆ)かれたのは、我國一般の思想界及び文藝界に取つて取返し難い大損失である。その死を哀惜するは氏を知ると知らざるとの別がない。社會の各方面から此の位(くらい)惜(おし)まれた人は近来多く其の比を見ない。つまり得難い人物であることが之れを見ても証明される。

 二葉亭氏に志士的風格のあつたのは、氏の天稟(てんりん)に由来する所もあつたらうし、露文學の影響や青年時代の教育——特に濟美黌(せいびこう)在学中の儒教的感化——にも負ふところがあつたであらう。が、一つには矢張時代の児(こ)として、青年期に経過した時代の特色が、終生抜け得なかつたのだらうと思ふ。”

 氏は今年(こんねん)四十八歳で永眠せられたのだから、明治十年前後の征韓論沸騰、引続いて、維新元勲の分裂、内閣の動揺、佐賀の騒動、西南の戦争といふ具合に、維新後最も政治部面に事の繁く、伝記的色彩の豊富であつた此の時期は、氏が十六七歳といふ、——染まり易い動かされ易い白紙時代で、——最も感受性の緊張してゐた頃に当るのである。 (中略)

 (『新小説』明治42年7月号「寸鐵」より)

  ※濟美黌・・・明治時代に高谷龍洲により東京・芝愛宕町に開かれた私塾

  ※享年に違いがあるのは、当時は数え年で表していたからであろう。

 (以下は現代語訳)

 ゛長谷川二葉亭氏が亡くなったことは、日本の思想界や文学界にとって取り返しのつかない大きな損失である。その死を惜しむ気持ちは、彼を知っているかどうかに関係なく広く共有されている。これほど多くの人に惜しまれた人物は近年あまり例がなく、それだけ得がたい人物であったことが分かる。

  二葉亭に志士のような風格があったのは、生まれつきの資質によるところもあっただろうし、ロシア文学の影響や、若いころの教育――とくに済美黌で受けた儒教的な影響――にもよるだろう。しかし同時に、時代の子として、青年期に生きた時代の特徴が一生抜けなかったのだとも思われる。

 彼は四十八歳で亡くなったので、十六、七歳のころは、明治十年前後の征韓論の高まり、その後の維新の功臣たちの分裂、内閣の不安定、佐賀の乱や西南戦争といった、維新後もっとも政治的に激動し、出来事に富んだ時期にあたっている。この時期は、感受性が最も鋭く、影響を受けやすい若い時代であった。”

 

 ゛氏が死ぬるまで文学者たることは満足せずして、志士的趣味の為めに奮闘したのは、其の由来するところは遠い。色々の原因もあるか知らんが、青年時代の時勢の為めに、彼(あ)の傾向の基礎がつくられたに違ひない。”(同上)

 (以下は現代語訳)

 ゛彼が生涯、単なる文学者であることに満足せず、志士的な気質のもとに奮闘し続けたのは、その背景が遠くにある。さまざまな理由はあるだろうが、若いころに生きた時代の影響によって、そのような傾向の基礎が形づくられたに違いない。”

 

 「寸鐵」欄における二葉亭四迷の死を惜しむ文章から、二葉亭四迷という小説家の同時代文士たちとの違い、文壇における影響力などがおぼろげながら推測できる。

 彼は、言文一致体の写実主義小説『浮雲』を発表して一世を風靡したにもかかわらず、文学活動を本業とすることをよしとはしなかった。また、若い頃から国を憂慮する気持ちを持ち続けていた。

 ロシアへ赴いたのは朝日新聞の特派員としてであったが、そこで病を発症したことで仕方なく帰国することになる。しかし、帰路の長旅の途中、ベンガル湾上で命が尽きてしまった。

 

 さて、二葉亭四迷は江戸末期の生まれであり、中島孤島よりも14歳ほど年上であり、むしろ師匠の坪内逍遙のほうに世代が近かった。そのため直接的な接点は生まれにくかったが、四迷がロシアへ赴任する直前に開かれた「送別会」で初めて面識を持っ機会が得られた。次回、そのことに触れたい。

 

 

『新小説』の「寸鐵」欄(2)

 文芸雑誌『新小説』の「寸鐵」欄は、自然主義文学推進に反抗、批判する主旨で設けられた感があり、非難対象の筆頭は島村抱月であったが、抱月だけでなくその門下生である相馬御風なども槍玉にあげられている。

 

 ゛相馬御風といふ男は抱月の真似をするに妙を得てゐるが、彼も婦人開放論者の一人だ。その説が四月の『二六』に「雑感」と題して載つてゐた。恁(か)うした漠然とした、バタ趣味、壊乱趣味の説は其の要領を得ぬところが生命(いのち)である。何となく刺戟的で、煽動的で、挑発的なところが眼目だ。要領を得るところまで明晰に進むと滅落(めつらく)だ。自然主義が能(よ)く其の実例を示してゐる。”

(『新小説』明治42年6月号「寸鐵」より)

 ※相馬御風・・・明治16年生まれの詩人、歌人、評論家。早稲田大学卒業後『早稲田文學』の編集に携わり、のちに早稲田大学講師となる。早大校歌の作詞者としても知られる。

 ※『二六』=『二六新聞』

 (以下は現代語訳)

 ゛相馬御風という男は、抱月のまねをすることにかけてはなかなか巧みであるが、彼もまた婦人解放論者の一人である。その主張が四月の『二六』に「雑感」という題で掲載されていた。このような漠然とした、いわば粗雑な趣味や破壊的な趣味に基づく議論は、要点がはっきりしないところにこそ生命があるのである。どことなく刺激的で、扇動的で、挑発的であることが肝心なのである。しかし、それが要点をきちんと押さえるところまで明晰に進んでしまえば、たちまち魅力を失ってしまう。自然主義がまさにその実例をよく示しているのである。”

 

 また相馬御風以外の『早稲田文學』の関係者に対しても容赦なく批判の矛先を向けている。

 ゛四維生なる『早稲田文學』派の大忠臣現はれたり。南朝に於る楠正成以上の大忠臣也。彼先づ抱月に頌徳表を捧げて曰く、「其学歴に於ても、其識見に於ても、又其人格に於ても、まづ抱月氏を推して現時評論界の頭領とせねばならぬ」と然り、然り、『太陽』の文壇名家投票の当選之れを證す、天下誰か争はん。但し現時評論界の頭領は四維生(しいせい)一輩の頭領と訂正するを以て更に適切ならずや。”(同誌より)

(以下は現代語訳)

 ゛四維生という人物が、『早稲田文學』派から“大忠臣”として現れた。南朝における楠木正成以上の忠臣である。彼はまず島村抱月に賛辞の文章を捧げて、こう言う。「その学歴においても、その見識においても、またその人格においても、まず抱月氏こそ現代評論界の指導者とすべきである」と。なるほど、その通りだと言いたいところであり、『太陽』の文壇名家投票で当選したこともその証拠だ、誰も反対できまい。だが、「現代評論界の指導者」といっても、それは四維生一派の中での指導者と訂正したほうが、むしろ適切ではないか。”

  

 抱月を師として慕う者、持ち上げるものはことごとくこの「寸鐵」欄において批判の対象になっているようにも見える。

 また、「文藝革新會」に異を唱えたり、批判する者に対しても、攻撃や批判を加えることを忘れない。

 ゛文藝革新會を以て、多数を恃(たの)んで文壇に勢力を布(し)かんとするものの如くに云ふは、素より讒誣(ざんぶ)中傷の言(げん)なれども、其の文壇は政治界にあらず、団体を結(く)んで多数の勢力を濫用するは、政治屋が政党を組織して横暴を逞(たくまし)ふするに異ならずとの説は尤もなり。然し乍(なが)ら、彼等の此の尤もなることを述ぶる前に何故(なにゆえ)に自から顧みて親分を馘(くびき)らんとはなさざりしぞ。親分が一団体の張本(ちょうほん)たることを棚に上げ置きて、他人の事業に嘴(くち)を容(い)るるなどは余りに身の程を弁(わきま)へぬ潜上(せんじょう)、無礼、小癪、卑劣の振舞(ふるまい)なり。

 見よ、汝等の親分が組織して団体的勢力を造るものにあらずや、多人数を糾合(きゅうごう)して団体的勢力を造るものにあらずや、何々主任とか云ふ藁人形的並び大名を沢山に製造して文壇に虚威(きょい)を張るものにあらずや、而(しか)して汝等の議論を以てすれば排斥すべきものにあらずや、攻撃すべきものにあらずや、文壇より駆逐すべきものにあらずや、然るに、之には知らぬ顔の半兵衛を気取つて、他人の事業には岡焼(おかやき)的屁理窟を列(なら)べ立つ。汝等は元来目あるか、耳あるか、抑(そ)も亦た自縄(じょう)自縛(ばく)と云ふことを心得居るか。”(同誌より)

 (以下は現代語訳) 

 ゛文藝革新会について、「多数の力を頼みにして文壇に勢力を広げようとしている」と言うのは、もともと根拠のない中傷にすぎない。たしかに、文壇は政治の世界ではないのだから、団体を作って多数の力を振りかざすのは、政治家が政党を組んで横暴に振る舞うのと同じだ、という主張には一理ある。しかし、そうしたもっともらしいことを言う前に、なぜ自分たちの側を振り返って、自分たちの親分を排除しようとしないのか。自分たちの親分が一つの団体の中心人物であることは棚に上げておいて、他人の活動に口出しするなどというのは、あまりにも身の程をわきまえない、出過ぎた、無礼で生意気、しかも卑劣な振る舞いである。

 よく見よ。お前たちの親分こそ、団体を組織して勢力を作っているのではないか。多くの人間を集めて、集団としての力を築いているのではないか。「○○主任」などといった名ばかりの役職をたくさん作り、見せかけの権威を文壇に誇示しているのではないか。しかも、お前たちの議論からすれば、それこそ排斥すべきものであり、攻撃すべきものであり、文壇から追い出すべきものではないのか。それなのに、そういうことには知らぬふりを決め込み、他人の活動に対してだけ、やきもちまじりの理屈を並べ立てる。お前たちにはそもそも目も耳もあるのか。それとも「自分で自分を縛る(自縄自縛)」ということの意味すら分かっていないのか。”

 

 すなわち、ここでは「自然主義文学を推進している早稲田文学」とそこに属する抱月をはじめとする「自然主義派」に対して、「自然主義文学に反対し、とりわけ抱月に対して反感を抱いているもの」「文藝革新會を組織したもの」が反抗するいう構図があからさまに表れている。

 『早稲田文學』と『新小説』はこのころ、互いに自分たちの誌面において、互いの批判や攻撃を重ねていたというのが実情のようだ。

 

 「寸鐵」欄のかなりの部分において反自然主義、反島村抱月の論が繰り広げられてはいたが、もちろん話題はそれだけに終わっていたわけではない。そのほかにも文壇における消息や、文壇内におけるゴシップなどが盛り込まれていた。

「反自然主義」以外の文についても次回で紹介したい。

『新小説』の「寸鐵」欄(1)

 明治41年2月18日の新聞『日本』において、中島孤島が島村抱月を批判する「文壇の審判者」という文章が掲載されてから、両者の間ではしばらくの間は表立った批判や論争はなかった。

 しかし、それから約1年後、今度は文芸雑誌『新小説』に文壇内の消息や批判などを論ずる「寸鐵(すんてつ)」という欄が設けられた。

 ※「寸鐵」というタイトルは「寸鉄、人を刺す」(短く鋭い言葉で要点や人の急所を突くこと)から来たものであろう。

『新小説』は後藤宙外が編集主幹を務めている雑誌だが、後藤宙外は自然主義に反対する立場であり、島村抱月に対して反感を抱いており、同じく中島孤島も自然主義に反対するだけでなく、抱月に対して個人的な感情のわだかまりを消せないでいた。

 「寸鐵」欄は、無記名(あるいはその場での筆名)で書かれる欄であったため、時として攻撃的な筆致で書かれたり、皮肉たっぷりに書かれたり、名指しである人物のことをあげつらったりした。本ブログの「文藝革新會」の項でも少し触れたが、当時の文壇内では、『新小説』の「寸鐵」欄の執筆は、おもに文藝革新會のメンバーによって書かれているのではないか、などと噂されてもいた。

 

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 号によっては、抱月を名指しで批判している文がかなりの字数を占めていることもあった。たとえば、以下のような具合だ。

 

 ゛文藝革新會の「主張」に対して真先に反抗の声を挙げた者は、例の抱月先生である。それが『大阪新報』紙上——百五十里の彼方へ態々(わざわざ)の遠出とでかけて、——やつてゐるから面白い。

 曰く「吾人をして忌憚なくいはしむれば、現代を以て光明時代、勃興の時代であるといふやうな言ひ方をするのは寧ろ俗論に媚ぶるものではないか」・・・「現代の時勢は果して光明とか剛健とか立派な言で讃美することが出来るかどうか疑問である」とケナシつけてゐる。

 これを遠吠式の気焔といふ。”(『新小説』明治42年5月号「寸鐵」欄より)
(以下は現代語訳)

 ゛文芸革新会の「主張」に対して、真っ先に反対の声を上げたのは、例の抱月先生である。それも『大阪新報』の紙面で――百五十里も離れた遠方へわざわざ出かけて行って――それをやっているのであるから、なかなか面白い。

 彼は次のように言っている。「率直に言わせてもらえば、現代を光明の時代とか勃興の時代であるなどと言う言い方は、むしろ世間の俗説に迎合するものではないか。……現代の時勢が、本当に“光明”だとか“剛健”だとかいう立派な言葉で称賛できるものかどうかは疑問である」と、批判しているのである。

 これはいわば遠くから吠えるような気勢にすぎない。”

 

 冒頭から「文藝革新會に対する島村抱月の批判」について言及していることから、この文章が「文藝革新會」側の人間によるものであることは読者にもすぐにわかることであり、また文の筆者が抱月に対する反撃としてこれを書いていることもわかる。

 

 「寸鐵」欄は一人の書き手によって書かれているものではなく、複数の書き手による短い文章の集合体なので、文体や表現は一様ではないが、「抱月先生」「抱月君」などと抱月に対しての批判、攻撃をしている文はかなり多い。「抱月君」と君づけで書いているのは、もしかしたら同級生だった後藤宙外だということも考えられる。

 

 ゛抱月君は自然派中では兎も角も指導者の位置に立つてゐる。指導者であるからは態度を明瞭にして置くの義務がある。含糊(がんこ)の態(たい)、逡巡の状で、何時までもフラフラして居ては、追従してゐる連中の迷ふのが気の毒である。彼等の迷惑も察して遣らずばなるまい。或場合には千萬言の絮(じょ)説より一の断が大切であることを知つて貰ひたい。”(同上)

(以下は現代語訳)

 抱月君は自然主義の仲間の中では、いちおう指導者の立場に立っている人物である。指導者である以上、自分の態度をはっきりさせておく義務がある。あいまいで煮えきらない態度のまま、ためらっていつまでもふらふらしていては、それに従っている人たちが迷ってしまうのも無理はなく、気の毒である。そうした人たちの迷惑も考えてやるべきであろう。場合によっては、どれだけ長々と説明するよりも、ひとつのはっきりした決断のほうが大切である、ということを理解してもらいたい。

 

 ゛曾て抱月君が発表した。「自然主義価値論」の方では、人生観から切り離した孤立の文藝観上の自然主義だつた。が、近頃『大阪新報』に吐いてる気焔に依れば、我が輩等(ら)と抱月氏一派の自然主義者とは、要するに「人生の解釈」を異にすると断言してゐる。これで見ると、前説を取消して、直ちに人生観に立脚して自然主義を唱へることになつたらしい。換言すれば二潮統一の上に立てる自然主義を取るといふことを宣言したものだと云へよう。”(同上)

(以下は現代語訳)

 以前、抱月君は「自然主義価値論」を発表したが、そのときは人生観から切り離された、独立した文芸観としての自然主義を説いていた。ところが、最近『大阪新報』での発言を見ると、我々と抱月ら自然主義者との違いは、結局のところ「人生の解釈」の違いにあるのだ、と断言している。このことから考えると、以前の説は取り下げて、今度は人生観に基づいた自然主義を主張するようになったらしい。言い換えれば、二つの流れを統一した立場に立つ自然主義を採る、と宣言したのだと言えるだろう。

  

 上記に抜粋した文章は比較的冷静に書かれているが、なかにはもう少し感情的に攻撃している文章などもある。

 ゛島村抱月先生の神経はいよいよ過敏の度を通越して、甚だ危険な徴候を呈して居るといふ噂があるが、若し事実なら誠にお気の毒な次第だ。人間の体力にはもともと限りがあるから、少し過重な責任を負ふと、自然要りもせぬ所にまで気をつかつて、神経を痛めるものだ。”(同上)

(以下は現代語訳)
 島村抱月先生は、神経がますます敏感になりすぎて、かなり危険な状態になっているという噂があるが、もしそれが本当なら本当に気の毒なことである。人間の体力にはもともと限界があるので、少し重い責任を背負うと、必要のないところにまで気を使ってしまい、神経をすり減らしてしまうものだ。

 

 そして、抱月に対して、論争をあおるようなことまで書いている。

 ゛美学の先生だからと言つて解りもしない画や彫刻を論じなければならぬといふこともあるまい。浅薄な、疵(きず)だらけな論文を発表して世間の注目を惹くよりも、寧(いっ)そ黙つて隠れて居らした方が、奥床しくつて、先生のためには結句幸福かも知れない。但(ただし)「寸鐵」のためには、今後も続々然(そ)ういふ大論文を発表して貰ふ方が都合がいい。”(同上)

(以下は現代語訳)

 美学の先生だからといって、よく分かってもいない絵や彫刻について無理に論じる必要はないだろう。中身が浅く欠点だらけの論文を発表して世間の注目を集めるくらいなら、いっそ黙って表に出ないでいるほうが、控えめで上品だし、結局は先生自身のためにも幸せかもしれない。ただし、「寸鉄」にとっては、これからもそういう大げさな論文をどんどん発表してもらったほうが都合がいい。

 

 このように、「寸鐵」欄は、文壇内のできごとや消息をあれこれ雑多に批評する欄のように見えて、その実は「自然主義」を推進する島村抱月やその周囲に対しての反論や批判、攻撃などを目的として作られた欄の様相を呈していた。

 

 もちろん、抱月以外についての話題も取り上げられているので、それは次回紹介したい。

 

島村抱月との因縁(12)(「文壇の審判者」)

 新聞『日本』(にっぽん)に「文壇廓清問題」という記事が載り、島村抱月の弁駁を経て、まだその話題の余波が続いていた頃、中島孤島の『文壇の審判者』という記事が同紙に掲載された。

 

 ゛文壇の廓清は近時の文壇に於て最も痛快なる而して最も必要なる問題なり。人或は毒を以て毒を洗ふに似たりといふものあらん。されど自然主義論者の所謂「現實暴露」の時代に於て彼等主張者の現實を暴露して、赤裸々の事實を世人の眼前に示すは思ふに彼等の本望ならんか。(中略)”(明治41年2月18日『日本』より)

(以下は現代語訳)

 ゛文壇の浄化は、近年の文壇において最も痛快であり、同時に最も必要な問題である。これを、毒をもって毒を制するようなものだと言う者もいるだろう。しかし、自然主義論者がいうところの「現実暴露」の時代において、彼ら主張者自身の現実を暴き、その赤裸々な事実を世間の目の前に示すことは、考えてみれば、むしろ彼らの本意にかなうことではないだろうか。”

 

 明治41年といえば、すでに「自然主義」論が大きな盛り上がりを見せている頃である。自然主義を手放しで鼓吹する島村抱月に対して反感を抱いていた孤島は、「文壇廓清問題」で島村抱月が槍玉に挙がっていたことを「痛快」とし、さらに自然主義支持に対する揶揄を込めた文章を書いた。

 

 タイトルにあるように、孤島の批判の矛先は、ここでは「文壇廓清」や「自然主義」そのものではない。それは『早稲田文学』においてこの明治41年から新しく設けられた「推讃之辞」という欄に対するものだった。

 「推讃之辞」は『早稲田文学』において、「過去1年間の優れた文芸作品を選び、同誌巻頭で絶賛・推奨する」というものである。賞を与える形ではあるが、もちろんいわゆる現代の文学賞のように「賞金」があるものではなく、あくまで「推讃」するだけである。

 第1回の文藝作品の受賞は田山花袋の「蒲団」となった。

 この「推讃之辞」に対する孤島の意見は下記のようなものだった。

 

 ゛批評家は有らゆる意味に於て文藝の保育者なり、評家は文壇を𠮟咤すべし、愛撫すべし。而(しか)して各々其長に従つて之を指導すべし。然かも審判は断じて批評家の事にあらず。吾人は實に文壇の審判者を憎む。彼は助長の力なく、保育の愛なくして、ただ恣(ほしい)ままに其の主権を弄せんとす。(中略)”

 (以下は現代語訳)

 ゛批評家は、あらゆる意味において文学の育成者である。批評家は文壇を叱咤すべきであり、また愛情をもって育てるべきである。そしてそれぞれの長所に応じて、これを導かなければならない。しかし、審判を下すことは断じて批評家の役目ではない。私は誠に文壇の審判者を憎む。彼は助長する力もなく、育てようとする愛も持たず、ただ自分勝手にその権力を弄ぼうとしているからである。”

 

  すなわち、「批評家の役目は文学の育成であり、作品の長所に応じてこれを導く存在であるべきだが、審判を下すことは育成とは違う。それは文学を育てるのではなく、ただ勝手に権力を行使することである」という意見だった。そして、一般論としてのこのような意見の述べた後に、その矛先を島村抱月に向けた。

 

 ゛文壇廓清の初に於て第一の問題となれる島村抱月の如きは現代に於ける最も暴横なる審判者の一なり。彼は其主宰する「早稲田文学」において、常に僭越なる審判者の地位に立てり。吾人は其「推讃之辭」を一読して其態度の倨傲なるに驚けり。彼はオリンプスの競技に擬して文藝の士に月桂冠を捧げんとす。其誇學的態度は吾人をして失笑せしめたり。憐れなる審判者よ、彼は何處(いずこ)より其審判の権を得たる。(中略)”

 (以下は現代語訳)

 ゛文壇浄化にあたってまず問題となった島村抱月のような人物は、現代における最も横暴な審判者の一人である。彼は、自らが主宰する『早稲田文学』において、常に分をわきまえない審判者の立場に立ってきた。私は彼の「推讃之辭」を一読し、その態度のあまりの傲慢さに驚いた。彼は文学者たちをオリンピックの競技者になぞらえ、自分が月桂冠を授けるかのように振る舞っている。その学識を誇示するような態度は、私を思わず失笑させるものであった。哀れむべき審判者よ、彼はいったい、どこからその審判の権利を得たというのか。”

 

 ゛彼の趣味は形式的にして皮相的なり。彼の感情は冷静にして輕浮なり。彼は宗教を解せず、想像の眞味を解せず、冷(ひややか)なる現實を見て現實の底に横はる大なる事實に觸るること能はず。此くの如き評家によつて推稱せられ獨占せられたる自然主義は禍(わざわい)なる哉。(中略)”

 (以下は現代語訳)

 ゛彼の趣味は形式的で表面的であり、感情は冷静であるようでいて軽薄である。彼は宗教を理解せず、想像力の真の価値も理解せず、冷ややかな現実を見てその現実の底に横たわる大きな事実に触れるということができていない。このような批評家によって推し立てられ、独占されてきた自然主義とは、まことに災厄であると言わねばならない。”

 

 孤島は、抱月が自然主義を鼓吹するためにわざわざその作品を取り上げて讃辞し、またその権威によって文学全体の価値基準を自然主義という一つの方向だけに向わせようとしていることに我慢がならなかったようだ。

 このようにひとしきり抱月の「推讃之辭」を攻撃した後、最後にこのように結んでいる。

゛現代の思潮は彼の見るよりも一層深奥なり。現代の文藝は更に眞摯なる更に熱烈なる指導者を要す。此くの如き審判者の僭越を默過(もくか)する限り文壇は日一日(じつ)に其心熱を冷却して不徳と劣情とのために横領せらるべし文壇は速(すみやか)に彼(か)の審判者を葬らざるべからず。”

(以下は現代語訳)

 ゛現代の思想の流れは、彼が考えているよりも、はるかに深く奥行きのあるものである。現代の文学は、さらに真摯で、さらに熱意に満ちた指導者を必要としている。このような審判者の分不相応な振る舞いを黙って見過ごしている限り、文壇は日ごとにその情熱を失い、不徳と卑しい感情によって占拠されてしまうであろう。ゆえに文壇は、速やかにその審判者を葬り去らねばならないのである。”

 

 しかし、自然主義の波はまだ勢いを増している時期だった。孤島のこのような批判もその大きな波にかき消されていったように思われた。

 また今回の批判に対しては、抱月からは何ら公的な反論は示されなかったため、論争に発展することはなかった。それもあってか、孤島の抱月および自然主義に対する反感はまだ収まりがつかなかったと思われ、これが翌年の「文藝革新會」発足へとつながっていくのである。

 

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島村抱月との因縁(11)(「文壇廓清問題」)

 明治39年末から明治40年はじめごろにかけて、島村抱月と中島孤島の論争が起きて以来、しばらく公的な場での論争はなく、その争いは幕を引いたかのように思われた。

 しかし、それから約1年が経過した明治41年2月頃、文壇にある問題が持ち上がったことがきっかけとなり、中島孤島の批判が再び島村抱月に向うことになる。

 その「問題」とは新聞「日本(にっぽん)」に掲載された「文壇廓清問題」である。「廓清」とは、「悪いものを取り払って清める」という意味であり、すなわち「文壇における悪いものを一掃すべし」という趣旨の告発記事であった。

 記事の中でまず対象として挙げられたのは、まず眞山靑果という作家の「原稿多重売り問題」であったが、その後にさらなる由々しき問題として取り上げられたのが、『早稲田文学』を発行している早稲田文学社とその出版社金尾文淵堂との関係についてだった。

 その内容は、以下のようなものだった。
 『早稲田文学』の発行は早稲田文学社が編集を行い、出版社金尾文淵堂がその編集費を早稲田文学社に支払い、販売・営業を分担するという形で運営されていた。しかし、金尾文淵堂の経営が悪化したことで、印刷会社への未払い債務が生じ、それを理由に印刷会社が印刷を拒否するという事態が生じた。

 しかし最終的に、早稲田文学社が調整を行うことで、印刷会社の日清印刷は雑誌を刷り上げ、早稲田文学社は金尾文淵堂を介さずに市中に配布し、代金回収までを行った。

 

 この事実を受けて、新聞「日本」は、「事実は明白である。早稲田文学社が日清印刷会社と結託の上文淵堂より編輯料を収め、書肆の支出を以て広告をなさしめ、而て他(た)をして雑誌を売捌(うりさばか)しめ、其収入をも自分に取入つたと解するの外(ほか)は無いのである。」と断じた。

 そして、『早稲田文学』主幹である島村抱月に対しては、「万々一事実に相違の点あらば早稲田文学社、殊に当の責任者たる島村抱月氏の速(すみやか)に公明正大に顛末を記して、幸に世の誤解を招かれざらんことを切望するのである。」として、早稲田文学社の代表としての島村抱月に弁明を求めたのである。

 

 この告発を受けて、島村抱月は早速4日後の同紙に弁明文を出した。

 ゛日本記者足下、予は早稲田文学社を代表して下の抗議をなす。

日本新聞が明治四十一年二月八日より九日にわたり文壇廓清問題と題して掲げたる本社対金尾文淵堂の記事は、本社に金尾文淵堂の雑誌売上代金を横領したる罪悪ありと断言したり。是予(よ)等(ら)に取りて容易ならざる問題なり。如何なる手段によりても是非黒白(こくびゃく)の最終結着に達せんことを要す。予は先づ事の順序として事実を明記すべし。”(明治41年2月13日(木)新聞『日本』「文壇廓清問題 島村抱月氏の弁駁」より)

 島村抱月にとっては、「横領疑惑をかけられる」などとはあまりに心外なことであったのだろう。上記文面には「何が何でも白黒をはっきりさせ、疑惑を晴らしたい」という意思が表れている。そして、その後は、早稲田文学社、日清印刷会社、金尾文淵堂が『早稲田文学』当該号発刊に際してどのような動きをしたのか、誰がいつ何をしたか、に関して12件の事実関係を挙げての説明が続く。

 

 しかしこの島村抱月の「弁駁」を受けて、新聞『日本』は、翌日の紙面において一つ一つの事項について、さらなる徹底的な反証を行った。この反証は、推測に基づくものというよりも、早稲田文学社関係者や印刷会社、出版社などに取材をするか、内部の人間からの情報を得ない限り書けないような内容となっていた。

 早稲田文学社と日清印刷会社、出版社金尾文淵堂の間における事実関係の真偽が実際のところどうであったかは、ここで判断することはできないが、わかっているのは、このように島村抱月氏が新聞『日本』においてある意味「執拗に糾弾された」ということである。

 

 他方で、一つ興味深い事実がある。

 この明治41年2月の「文壇廓清問題」が起きる少し前の明治40年9月のこと。『文庫』という文芸雑誌の「文芸界消息」の欄に

 ゛中島孤島氏は日本新聞社に入れり。”

 という消息記事が載っている。どうやら、この頃、中島孤島は日本新聞社『日本』に関わっていたようなのである。他の資料によれば、専属記者ではなく、客員としての入社だったようである。

 いずれにしても孤島が『日本』に関わり始めてから半年ほど後にこの「文壇廓清問題」が掲載されるのだが、とくに「島村抱月および早稲田文学社における問題」に関しては、孤島あるいは孤島の周囲からの情報が記事に寄与していると推察される。内部に詳しい者でなければ、なかなか書けないような詳細までに言及しているからである。記事を直接書いたのが孤島であるとは限らないが、孤島が何らかの形で記事に関わっていた可能性が高いと見るのは自然であるように思われる。

 このような形で、孤島と抱月の確執は水面下でまだ続いていたと言える。

   だが、まだこの時点で孤島は直接的には抱月を批判してはいない。

 冒頭で書いた「中島孤島の批判が再び島村抱月に向う」のは、この後のことである。