2024-01-01から1年間の記事一覧
大正10年8月発行の中島孤島『変な家鴨』精華書院には、表題の物語のほかに、以下のアンデルセン作品が収められている。 運は棒の先にも とぢ針 ヒャルマアの夢 天使 甲蟲(かぶとむし) 蕎麦の自慢 樅(もみ)の木 アンデルセン作品は「みにくいあひるの子」…
グリム童話と並び称されるアンデルセンの童話は、代表的なものに「人魚姫」「みにくいあひるの子」「裸の王様」などがあるが、日本に紹介されたのは、やはりグリム童話と同様に明治期からである。 中島孤島はアンデルセンの童話についてもいくつか翻訳を残し…
『狼太郎』と同じ少年世界文学のシリーズに中島孤島編『蝶の魔法』という本があるが、これも県立神奈川近代文学館で目にすることがかなった。 kotoh.hatenablog.com 『狼太郎』と異なるのは、こちらは完全な翻案というよりも、外国文学として表されているこ…
先日、県立神奈川近代文学館を訪れ、中島孤島編/キップリング原作『狼太郎』(冨山房 明治35年)の現物をようやく目にすることができた。 kotoh.hatenablog.com 中島孤島/編ではあるが、本文の一ページ目に「坪内逍遙閲 中島孤島編 渡部金秋画」と並んで記さ…
中島孤島が金田一京助を通して石川啄木に出会ったのは1909年(明治42年)のことだが、あるときちょうどその頃を舞台として「金田一京助と石川啄木を主人公にして創作した物語」が存在することを知った。 それは伊井圭/著『啄木鳥探偵處』東京創元社で、2020…
石川啄木は、日記だけでなく書簡にも執筆中の小説『木馬』(のちに『道』と改題)のことを記している。 (坪内祐三編集『明治の文学 第19巻 石川啄木』筑摩書房 2002年1月より) 四月十六日 (書簡)本郷より 宮崎大四郎宛 「・・昨夜も四時頃迄起きていたの…
石川啄木は、明治42年4月2日から「ローマ字日記」を書き始めている。 そこに現れた中島孤島やその周辺の人たちとの交流を抜き出して書き出してみる。 (坪内祐三編集『明治の文学 第19巻 石川啄木』筑摩書房 2002年1月より) ゛明治四十二年 四月十四日 水曜…
三省堂『日本百科大辞典』の編輯の仕事を通して、同僚の金田一京助と知り合った中島孤島は、その流れで石川啄木とも出会うことになる。 石川啄木は、日記や書簡を残しているので、そこから中島孤島と知り合った際の経緯や、どう関わっていったのかを知ること…
『日本百科大辞典』の執筆編集に中島孤島が関わっていた時期、言語学者の金田一京助も編集部員としてその事務所に通っていた。 金田一京助の若いころのプロフィールを簡単に記すと、 ゛明治34年3月盛岡中学校卒業後仙台の二高をへて東大に進学、言語学を専攻…
『日本百科大辞典』の執筆に関わった人たちは、総勢550名にものぼるというが、その中には、当初から長きに関わっていた人もいれば、途中からの参加の人もいた。 この辞典の総裁には大隈重信が就任している関係から、早稲田大学の関係者も多く関わることにな…
『日本百科大辞典』の最後の巻にある「日本百科大辞典編纂の由来及変遷」を執筆したのは、三省堂書店編集責任者の斎藤精輔である。 辞典の構想がどのように始まり、どのような人たちが関わり、また完成までにどのような出来事があったのかなどをかなり詳しく…
1908(明治41)年11月から1919(大正8)年にかけて、三省堂書店から『日本百科大辞典』というシリーズが刊行されたが、この辞典の編纂に中島孤島はかかわっていた。 この『日本百科大辞典』は名前は「辞典」とあるけれど、内容としてはいまの「事典」に相当…
森鷗外と中島孤島は、思想において異なる意見を同時期に発表したという間接的な接点があるだけかと思っていたが、森鷗外の日記を見ると、実際にある時期に直接の交流があったことがわかる。 それは、さきの「文芸取り締まりの問題」について意見の違いがあっ…
「論争」に発展したとはいえなくても、ある事象について、異なる意見を表明することで、実質上は意見の対立が起きていることはよくある。 中島孤島と森鷗外の間においても、それが発生していた。 明治時代末期、世の中の流れとして、言論弾圧が次第に厳しく…
学校を卒業して以来、新聞や文芸雑誌において評論の活動をしていた中島孤島にとって、『近代文学論争事典』には必ずしも取り上げられてはいないが、小さな「論争」が起きることは少なからずあった。 その一つに徳富蘆花との論争がある。これは1902(明治35)…
先の「近代文学論争事典」で解説されている論争のなかで、中島孤島が関わるもう一つの論争は「象徴詩をめぐる論争」だ。 これは蒲原有明が1905(明治38)年に発表した詩集『春鳥集』が発端となり、有明の詩だけではなく「象徴詩」や「象徴主義」をめぐって意…
1962年(昭和37年)に至文堂というところから出版された長谷川泉/編『近代文学論争事典』という書物がある。文壇においてどういうテーマが論争の的となっていたか、そこに誰が加わっていたかなどが解説された事典だが、「事典」が一冊作れるほどに近代文学に…
1900(明治33)年に東京専門学校(現早稲田大学)文科を卒業した中島孤島は、主に文芸雑誌や新聞に文芸批評記事を書いたり、海外文壇の紹介記事を書いていたが、その時期にも時折児童向けのものを書くことがあった。 たとえば、1902(明治35)年8月に読売新…
明治期に冨山房より出版された中島孤島/編『こども芝居』のなかに、附録として「かまど姫」というお話が掲載されているが、この「かまど姫」は、のちに児童雑誌『金の星』にも掲載されている。 『金の星』のほうで確認してみると、この「かまど姫」という話…
外国の作品を翻訳して紹介する際に、明治以来とくに児童文学の分野では「再話」という手法が用いられてきた。 児童文学における「再話」をあらためていくつかの辞書をもとに定義すると、「神話、伝説、昔話、世界の名作文学作品などを、原典に忠実に翻訳する…
「少年世界文学」シリーズで、中島孤島は『狼太郎』『百姓と悪魔』『蝶の魔法』の巻を執筆担当しているが、この『狼太郎』について見ていこう。 (まだ実はこのシリーズの現物を見る機会に恵まれていないのが残念だが)この『狼太郎』の原作はイギリスの作家…
中島孤島が評論活動などから離れて、児童文学に注力するようになったのは、大正時代に入ってからであり、いわゆる゛文壇”を離れたから児童文学に移っていったようにも見えるが、さかのぼると児童文学へのかかわりは実は若いころからあった。 明治35年に冨山…
゛ゆかりの挿絵画家ー水島爾保布ー”のところで、彼が文芸同人誌『モザイク』という雑誌に参加していたことを書いたので、ここでその『モザイク』について取り上げてみる。 『モザイク』をめぐっては、中島孤島の周辺において興味深い人間関係のつながりがあ…
鏑木清方が挿絵を担当した中島孤島/編『こども芝居』彩雲閣1907(明治40)年 という本がどのような本なのか少し紹介してみよう。 中島孤島による゛はしがき“は次のように書かれている(原文は旧仮名遣い)。 ゛外国にはクリスマスの祭というものがあって、こ…
鏑木清方といえば、言わずと知れた日本画の大家であるが、彼の画家としての出発は本や雑誌、新聞の挿絵だった。 明治時代は文芸雑誌『文藝俱樂部』や『新小説』の口絵を担当するなど、挿絵画家として次第に人気を獲得していき、また泉鏡花などの単行本の挿絵…
中島孤島の著作と関係のある挿絵画家の一人に、水島爾保布(1884(明治17)年生まれ)という人がいる。 爾保布は「におう」と読むそうだが、完全な筆名というよりも本名も「爾保有」で同じ読み方であり、印象的な名前だ。 水島爾保布については、プロフィー…
先日訪れた県立神奈川近代文学館では、雑誌『オヒサマ』以外にも、とても貴重な本に出会うことができた。それは、模範家庭文庫のなかの巨人版『グリム童話集』である。 模範家庭文庫の『グリム御伽噺』と『続グリム御伽噺』は1946(大正5)年、1924(大正13…
前回雑誌『オヒサマ』の第1巻4号(大正12年)「童劇童踊号」について書いたが、この「童劇」「童踊」というのは今では聞かない言葉だ。「童劇」は「児童劇」ともいうが、「児童劇」は「デジタル大辞泉」によれば 児童のための劇。また、児童が中心になって演…
以前にここで触れたが、私にとってほぼ ”幻の雑誌“といってもよかった『オヒサマ』の現物にある場所で対面することができた。県立神奈川近代文学館である。 ※『オヒサマ』は1922(大正11)年に資生堂により創刊された雑誌。1923(大正12)年終刊。 中島孤島…
「文藝に現れた夏」で最後に取り上げられているのは、「西遊記」である。 ゛更に近く我が周囲に目を向けると、爰(ここ)には支那の「アラビヤン・ナイト」といわれる「西遊記」がある。併(しか)し「西遊記」は前の二者に就いて言われるような意味で、夏の…