中島孤島の軌跡

明治生まれの文学者中島孤島の作品と人生をたどります

金田一京助との縁

 『日本百科大辞典』の執筆編集に中島孤島が関わっていた時期、言語学者金田一京助も編集部員としてその事務所に通っていた。

 

 金田一京助の若いころのプロフィールを簡単に記すと、

 

 ゛明治34年3月盛岡中学校卒業後仙台の二高をへて東大に進学、言語学を専攻した。中学時代短歌に関心を持ち、東京新詩社に加入して、花明の筆名で『明星』に作品を発表、与謝野鉄幹(寛)の知遇を得て終刊まで同人としての地位にあった。明治40年7月大学を卒業、翌年4月より海城中学校の講師となったが、半年でその職を辞して三省堂編輯所にはいり、かたわら国学院の講師を兼ねた。この年北海道より上京きて来た啄木と下宿を共にし、できるかぎりの援助を惜しまなかった。”

(『石川啄木全集 第7巻 書簡』筑摩書房 1979年9月 より)

 

となる。「三省堂編輯所にはいり・・」という箇所が『日本百科大辞典』の編輯部員として参加していたことを指している。

 また金田一京助が啄木と自分のことを振り返って書いている文章にも『日本百科大辞典』の編輯に関わっていたころのことが記されている。

 

 ゛私は、その決心をアイヌ語の恩師の金沢正太郎博士へお話したら、「シナ行きは、よしたまえ、(中略)それよりも、三省堂の日本百科大辞典編修所が、校正係りに言語学科の出身者を一人求めているから、ちょうどよかろう」と、私を斎藤編修蝶へ紹介してくだすったのが、私の生涯を今日の方向へ導いた第一歩だった。”

(『金田一京助随筆選集3 おりおりの記』三省堂 1964年12月 より)

 

 ”三省堂の校正部は、百科事典の恐らく第4巻が出るときで、いよいよ出しなになると、カン詰めになって、徹夜までさせられた。いや、印刷工場にまで出張した。”

(『金田一京助全集 第13巻 石川啄木 』三省堂 1993年7月 より)

 

 金田一京助が郷里の後輩である石川啄木と親友でもあり、また何かにつけて啄木に対して助けを惜しまなかった人であったことは有名であるが、金田一京助とこの三省堂『日本百科大辞典』の職場で同僚関係であった中島孤島は、金田一京助を通して石川啄木と知り合うことになる。

 

 次回はそのことについて触れてみたい。