中島孤島の軌跡

明治生まれの文学者中島孤島の作品と人生をたどります

『新小説』の「寸鐵」欄(3)

 『新小説』の「寸鐵」欄は、噂話や個人に対する批判だけではなく、文壇内の消息やその事柄についての記者による感想が載る欄でもあった。

 明治42年7月号においては、赴任先ロシアから船で帰国する途上、惜しくも45歳の若さで命を落とした二葉亭四迷について、その死を悼む文章が載っている。

 ※二葉亭四迷・・・1864年元治元年生まれの小説家、翻訳家。代表作は「浮雲」。翻訳作品にツルゲーネフの「あひびき」「めぐりあひ」がある。

 

 ゛長谷川二葉亭氏の逝(ゆ)かれたのは、我國一般の思想界及び文藝界に取つて取返し難い大損失である。その死を哀惜するは氏を知ると知らざるとの別がない。社會の各方面から此の位(くらい)惜(おし)まれた人は近来多く其の比を見ない。つまり得難い人物であることが之れを見ても証明される。

 二葉亭氏に志士的風格のあつたのは、氏の天稟(てんりん)に由来する所もあつたらうし、露文學の影響や青年時代の教育——特に濟美黌(せいびこう)在学中の儒教的感化——にも負ふところがあつたであらう。が、一つには矢張時代の児(こ)として、青年期に経過した時代の特色が、終生抜け得なかつたのだらうと思ふ。”

 氏は今年(こんねん)四十八歳で永眠せられたのだから、明治十年前後の征韓論沸騰、引続いて、維新元勲の分裂、内閣の動揺、佐賀の騒動、西南の戦争といふ具合に、維新後最も政治部面に事の繁く、伝記的色彩の豊富であつた此の時期は、氏が十六七歳といふ、——染まり易い動かされ易い白紙時代で、——最も感受性の緊張してゐた頃に当るのである。 (中略)

 (『新小説』明治42年7月号「寸鐵」より)

  ※濟美黌・・・明治時代に高谷龍洲により東京・芝愛宕町に開かれた私塾

  ※享年に違いがあるのは、当時は数え年で表していたからであろう。

 (以下は現代語訳)

 ゛長谷川二葉亭氏が亡くなったことは、日本の思想界や文学界にとって取り返しのつかない大きな損失である。その死を惜しむ気持ちは、彼を知っているかどうかに関係なく広く共有されている。これほど多くの人に惜しまれた人物は近年あまり例がなく、それだけ得がたい人物であったことが分かる。

  二葉亭に志士のような風格があったのは、生まれつきの資質によるところもあっただろうし、ロシア文学の影響や、若いころの教育――とくに済美黌で受けた儒教的な影響――にもよるだろう。しかし同時に、時代の子として、青年期に生きた時代の特徴が一生抜けなかったのだとも思われる。

 彼は四十八歳で亡くなったので、十六、七歳のころは、明治十年前後の征韓論の高まり、その後の維新の功臣たちの分裂、内閣の不安定、佐賀の乱や西南戦争といった、維新後もっとも政治的に激動し、出来事に富んだ時期にあたっている。この時期は、感受性が最も鋭く、影響を受けやすい若い時代であった。”

 

 ゛氏が死ぬるまで文学者たることは満足せずして、志士的趣味の為めに奮闘したのは、其の由来するところは遠い。色々の原因もあるか知らんが、青年時代の時勢の為めに、彼(あ)の傾向の基礎がつくられたに違ひない。”(同上)

 (以下は現代語訳)

 ゛彼が生涯、単なる文学者であることに満足せず、志士的な気質のもとに奮闘し続けたのは、その背景が遠くにある。さまざまな理由はあるだろうが、若いころに生きた時代の影響によって、そのような傾向の基礎が形づくられたに違いない。”

 

 「寸鐵」欄における二葉亭四迷の死を惜しむ文章から、二葉亭四迷という小説家の同時代文士たちとの違い、文壇における影響力などがおぼろげながら推測できる。

 彼は、言文一致体の写実主義小説『浮雲』を発表して一世を風靡したにもかかわらず、文学活動を本業とすることをよしとはしなかった。また、若い頃から国を憂慮する気持ちを持ち続けていた。

 ロシアへ赴いたのは朝日新聞の特派員としてであったが、そこで病を発症したことで仕方なく帰国することになる。しかし、帰路の長旅の途中、ベンガル湾上で命が尽きてしまった。

 

 さて、二葉亭四迷は江戸末期の生まれであり、中島孤島よりも14歳ほど年上であり、むしろ師匠の坪内逍遙のほうに世代が近かった。そのため直接的な接点は生まれにくかったが、四迷がロシアへ赴任する直前に開かれた「送別会」で初めて面識を持っ機会が得られた。次回、そのことに触れたい。