中島孤島の東京専門学校の同窓生である正宗白鳥と近松(徳田)秋江は、孤島より2年あとに卒業したが、実際の年齢はあまり変わらなった(近松は孤島より年上)。それもあってか、親しく交流していた時期があったようだ。
白鳥と秋江はどちらも岡山県出身で同級生であったことから、二人一緒に語られることが多いし、長く交流を続けた親友とみなされているが、ひとことで「親友」というにはおさまらない複雑な心理が二人の間には流れていたようだ。
白鳥は昭和25年(1950年)に『流浪の人』という小説で近松秋江を描いているが、それを見ると白鳥の眼を通した近松秋江という人物像と、白鳥との関係性がくっきりと浮かんでくる。秋江自身の回想録からだけではわからない当時の状況もわかって、興味深い。
゛ところで、秋江のやうな辛抱氣のない怠け者には、規律の正しい会社勤めの出来る筈はなく、四の五のと理屈をつけて退社することになつた。独身者だから気軽に退社も出来たのだが、無職では下宿代にも困るので、学校の先輩を歴訪して、事情を訴へた。そして、有力な先輩の口利きで、私などのゐる早稲田の出版部に割り込むことになつたが、その噂を聞くと、私はショツクを感じた。人生に踏み出した最初に受けたショツクであつた。
彼は、私のやつてゐる文学講義録の幾部分を手助けし、傍ら早稲田學報の手伝ひをもする事になつてゐた。それで仕事が量張(かさば)るといふ訳か、月給が私よりもすこし多かつた。さういふ極め方をした先輩が、人間知らずなのだ。少なくも秋江知らずなのだ。秋江はこれ幸ひとして、どちらの仕事にも身を入れないのである。自分は、負担してゐる仕事のうち、十分の七が講義録の方で、十分の三は学報の方だと、秋江は公言して、詰まりはどちらもやらぬ事になつた。何もやらなかつたのだ。世の中にかういふ事があるものかと、私はいろいろな人生経験を積んだ五十年後の今日でも、回顧して不思議に思つてゐる。私は世上の多数人の心理をよく知らないのだが、大抵の人間なら、いくら怠けものであつても、月給を取つてゐれば、いくらか仕事をしさうなものだ、と推察される。ところが、秋江に於いては、さういふ責任感は虫眼鏡で捜しても見当らないのである。「校正仕事は俗で面白くない。」と云つたりしてゐた。私の前の椅子に腰を掛けて、欠伸をしたり、「君の顔は、(多情多恨)の鷲見柳之助に似てゐる。ハハハ。」と云つたりする。「そんな馬鹿な事を云はないで早くやれよ。」と、私が迫ると、長い顔を振はせながら、目をしば叩き、舌なめづりして、校正の筆を採るのだが、それは十分とも続かないのを例とした。第一、彼の校正は用をなさないので、そのままにしてゐたら、誤植だらけの講義録が出る訳であつた。退屈すると用事にかこつけて定刻前によく帰つて行つた。私に挨拶もなく、会計から二た月分の月給を前借して、母親の還暦祝ひに列席すべく帰郷した。私は主任だから、期日までに、編輯でも校正でも仕上げなければならなかつた。(中略)島村抱月先生は洋行に際し、「新美辞学」の原稿を残して、出版部から出させる事にしてゐたのであつたが、その構成は、私と秋江とに依頼されたのであつた。それに関らず、秋江は言を左右に托して、一ページも半ページもやらなかつた。私だつても校正なんか秋江同様大嫌ひなのだから、やりたくはなかつたが、さうして、二人が抛つ散らかして置いたら、出版部の方で誰か人を見つけてやらしたにしても、抱月先生に対して申し訳がないのであつた。それで、私は兎に角、一人で全部をやつつけた。そして、それが終ると同時に、出版部を辞職することにした。私は一たび職を得たら、多少の不平があらうとも、どうにか辛抱して、先方から追ひ出されるまでは勤めを続けるやうな人間なので、講義録編輯と云つたやうな面白くもない仕事でも、最初に得た職業を一年未満で抛棄する筈はなかつたのに、秋江と事を共にするのがいやさに、簡単に出版部を離れた。
「私は今後、秋江とは決して仕事を共にしない。彼とは遊び相手として一生交つてゐればいいのである。」と神掛けて誓つたのであつた。(中略)
私が出たあと、間もなく、秋江も出版部を出たのであつたが、それは自発的ではなかつたので、私の後任者が秋江を助手とする事をはじめから好まなくて、極力排斥したためであつた。”
この描写が事実なら、確かに友人としてならともかく、同僚として一緒に仕事をするには秋江は全くもって適さない人物だといえる。
孤島と秋江が早稲田大学出版部発行の『早稲田文學』の編輯に携わるのは、これより後のことになるのだが、秋江はそこで満足に仕事をしたのだろうか、という疑念が生じてくる。
抱月が帰国後に秋江に出版部の仕事をやらせたのは、白鳥に言わせればやはり「秋江のことがわかっていない」ということになるのだろう。
白鳥の『流浪の人』では、このように秋江に関しての辛辣な描写があちこちに出て来る。
秋江が家庭を持つようになったものの、定職がないので経済的に逼迫している頃のこと。白鳥と秋江夫妻が雑談をしている場面だ。
゛「君は、やはり、翻訳でもコツコツやつてたらいいんぢやないか。早稲田の出版部で計画していゐる翻訳叢書のうちの一つを引き受ける事にしたらどうだ?」
私は、秋江の糊口の法としてはこれより外為方ないと思つて、さう云つたのであつたが、これとても、彼の翻訳能力を信じてゐたのではなかつた。語学の力の乏しい上に、仕事に対しての誠実さを欠いてゐる彼に、まんぞくの翻訳が出来るとは期待されなかつた。語学では級中第一との自信もあり、はたからも認められてゐた私でさへ、その翻訳が語訳だらけで、馬場孤蝶に指摘されて面目を失したほどであるのだから、秋江の翻訳なんか危かしいものと、私には推察されてゐた。しかし、当時、学校出で定職のない者は、何かの翻訳でもやつて、廉い翻訳賃でも稼ぐ外、生活費獲得の手段はなかつたのであつた。新聞記者になり、月給に有りついた私も、それだけでは、下宿料にも足りないので、傍ら翻訳や雑文を雑誌へ売りつけて、生活費の不足を補つてゐた。人間、結婚するとか家庭を持つとかは容易な事ではあるまいと、やうやう気づくやうに、私もなつてゐたが、秋江の家庭を見て、痛切にそれを感じるやうになつた。(中略)
「僕は、一生独身暮しでもいいと思ふが、少なくとも当分は必ず独身の下宿住ひだ。」と、私は二人の前で毅然として云つた。それを処世方針とするつもりだつたのだ。(中略)日露戦役直前の事であつた。”
”
白鳥からみた秋江の状況だけでなく、当時の時代的な状況も伝わってくる。高等教育を受けても(とくに文学専攻の場合)定職が容易に見つかるとは限らず、また新聞記者という定職に就いたとしても必ずしも生活は安定しないということがここからわかる。
ところで秋江の方から親友白鳥に対する見方はここまで厳しくはない。(つづく)