模範家庭文庫のなかの「グリム童話」は、現在と比較すると、より「原作に忠実な翻訳」がされているらしい。
それを引き合いに出して、戦後の童話のありかた、ひいては教育を批判しているのが、前にもご紹介した山本夏彦氏である。辛口のコラムニストとして名を馳せた山本夏彦氏の文章をふたたび取り上げてみる。コラムのタイトルは、「何ゆえの猫なで声」という。
゛母さんが私を殺した、父さんが私を食べた、妹のマルジョリーが、私の骨を一つずつ拾って、ハンカチに包んで、巴旦杏の根元に置いた。キューツト キューツト キューツト。きれいな鳥になったでしょう。
—―右は冨山房発行「グリム御伽噺」(中島孤島訳)のなかの忘れようとして忘れられないくだりである。グリムは恐ろしい話に満ちている。ヘンゼルとグレテル兄妹は深い森のなかに置きざりにされる。両親は夜な夜な相談する。もう食べるものは尽きた、子供たちを捨てるよりほかないと争っているのを耳にして、兄は道々そっと小石をおとして行く。幸いその晩は月夜だったので、石はきらきら輝いてそれをたよりに帰ることができた。
父親は喜んだがしばらくしてまた捨てなければならなくなった。こんどは道々パンをちぎって捨てたら鳥に食べられて再び帰ることはできなかった。そういう話に満ちている。
これによって子供の私は西洋人も昔は飢えたことを知った。親は子を捨てたことを知った。大正半ばの冨山房発行の「模範家庭文庫」は遠慮会釈なくそれを忠実に翻訳した。
私はこれで育った。韋編三たび絶つというが繰返して読んだのでおぼえてしまった。(中略)
こういう物語は残酷にすぎると戦後童話作家に改められるようになった。子供向きの猫なで声の用意があって、童話もテレビもそれで語られた。(中略)
勝手な改竄をするな、猫なで声で育てれば子供はま人間になるとでもいうのか。現代の親子の惨状を最もよく知りながら親どもはなお猫なで声を出す。(後略)
(週刊新潮 昭和63年3月31日号より 山本夏彦「良心的―夏彦の写真コラムー」新潮社に収載)
昔から伝えられてきた童話というものは、残酷な話が多いのは当たり前である、それを勝手に改竄して毒のない話に変えてしまうのは邪道である、残酷な部分をどんどん削ったからといってそれがこどもの教育にとっていいとは限らない、、と大雑把にいうとそういう主旨のコラムだったと思う。
確かにそうかもしれないと思った。山本氏らしく語調はとても辛辣だけれど、グリム童話を例をあげながら、それを教育論(!?)にまで発展させている点がとても興味深い。
いずれにしても山本夏彦氏が幼いころに読んだグリムから受けた強い印象とその影響がよくわかるコラムだった。